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世にも稀なる大将同士の一騎討ち

 【02//2012】

世にも稀なる大将同士の一騎討ち

決戦を急ぐ上杉弾正少弼政虎は、武田徳栄軒信玄の居場所を捜し求めた。

政虎は、紺糸の鎧の上に、萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を着て、金の星兜(ほしかぶと)の上より白練りの絹で顔を包み隠し、三尺一寸の小豆長光(あずきながみつ)の太刀を抜き、名馬 放生月毛(ほうしょうつきげ)に跨り、敵の状況や地形などを探る為に斥候(せっこう)に出した須賀但馬守山吉玄蕃頭の合図を今や遅しと待っていた。
濃霧にまぎれ、武田軍の本陣へまぎれ込んだ須賀但馬守、山吉玄蕃頭は、小半町をへだてた先に
二人の信玄を発見する。

二人の信玄は、黒糸の鎧を着て、黄金造りの武田菱・諏訪法性(すわほっしょう)の兜をかぶり、黄金造りの太刀を帯び、
緋の衣の袖を肩にかけ、軍配団扇(うちわ)を持って、床几に悠然と腰をかけている。
信玄と同じ出で立ちで床几に腰をかける影武者は、弟の武田逍遙軒信綱であった。
左右に同じ信玄の姿を見た須賀但馬守、山吉玄蕃頭は、困惑し、なかなか見極められずにいた。

その時、上杉勢に囲まれ、手傷を負い、窮地に追い込まれている嫡男武田太郎義信の姿を見た信玄は、
傍に控えていた旗本衆を義信救援に向かわせた。
その様子を見ていた須賀但馬守、山吉玄蕃頭は、「信玄公確認」の合図を掲げた。
愛馬放生月毛に跨り戦況を見ていた政虎は、乱戦により手薄となった信玄本陣と「毘一字旗」の合図を確認し、旗本数騎を引き連れ信玄の本陣を目指し疾風のごとき進撃を開始する。

信玄めがけて疾風のごとく駆け寄った政虎は、馬上より流星一閃、小豆長光の太刀を振り下ろす。
床几に腰をかけた信玄はそのまま軍配団扇で、政虎の太刀を受け留めた。

しかし続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったと言われている。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に
三太刀七太刀の跡(みたちななたちのあと)という。

甲陽軍鑑では、
政虎の切っ先は外れたが三太刀切りつける。
信玄は軍配団扇で受け止めた。
あとで見たところ団扇に八ヵ所の刀傷があったと記されている。

甲越信戦録では、
信玄は軍配団扇でしっかりと受け止める。
また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。
七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けたと記されている。

この「三」「七」は実数ではなく、何度も何度という副詞的に使われている数字である。
また、音読する場合「三太刀」「七太刀」は語呂合わせがよい。
この点から「三太刀七太刀」と表記したものであろうと考えられている。

手薄となった信玄本陣に切り込んだ政虎の攻撃で窮地に追い込まれた信玄を、
原大隅守虎吉(はらおおすみのかみとらよし)が間一髪、政虎の乗っている馬を槍で突いて退け、信玄の危機を救ったと伝えられる。

一方、夜襲を仕掛ける為、妻女山に向かっていた高坂弾正忠昌信ら別働隊は、政虎に出し抜かれ作戦は失敗に終わった事に気づき、急ぎ妻女山を下り本陣救援に向かった。
しかし、それを待ち構えていた甘粕近江守景持率いる軍勢が、千曲川の対岸から一斉に弓、鉄砲を撃ち立て、武田勢は川を渡れず、戦死者、負傷者が相次いだ。
やむを得ず迂回して千曲川を渡る方法を採った別働隊は、八幡原への出馬が大幅に遅れる事となった。

九月十日 午の刻(午前12時頃)
予定よりかなり遅れて八幡原に到着した別働隊は、本隊と共に上杉軍を挟撃する陣形をとった。
形勢不利を見て取った直江大和守景綱は、総崩れとなる事を恐れ、全軍に撤退を命じ、
甘粕近江守景持と共に殿を勤めた。

九月十日 申の刻(午後4時頃)
武田軍は上杉軍撤退の追撃を止めて八幡原に兵を引き、勝ち鬨を挙げた。
八幡原の戦いは終結する。
この合戦での上杉勢の討ち死には、三千四百七十余人
武田勢の討ち死には、四千六百三十余人であったという。
将兵の流した血潮で千曲川、犀川の水は三日間も紅に染まり、流れは洋々としていても深い谷間の霧を映すことはなかったという。
また、八幡原には死体が山のように野積みされ、腐乱した死体の放つ臭気が数ヶ月もの間鼻を押し通したと言われている。
甲陽軍鑑ではこの戦を、「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。
合戦後の書状でも、双方が勝利を主張している。
ただ、武田軍は最高幹部級の副将武田信繁・室住虎光が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいないため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もある。
いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

永禄四年(1561年)十二月
第四次川中島の合戦で勝利した(自称)政虎は、将軍足利義輝に戦勝報告を行う。
その際、義輝の一字を賜り、名を上杉弾正少弼輝虎(てるとら)と改めている。
天文十六年(1547年)より始まった川中島の合戦は、
永禄七年(1564年)七月
第五次川中島の合戦を最後に、北信をめぐる武田、上杉間の抗争は収束に向かい、
武田、上杉間をはじめとする関東の外交情勢は大きく変動していくことになる。

この時期の関東は甲斐武田相模北条越後上杉による三つ巴の勢力争いが続いていた。
こうした関東の情勢に徐々に影響を及ぼし始めたのが、三河の松平蔵人佐家康であった。
信玄はこれまで北信を巡り、上杉家との厳しい戦いに時間を割いてきた。
ところが永禄三年(1560年)五月十九日
今川治部大輔義元桶狭間にて討死し、今川家が急速に弱体化し始めた。
弱体化する今川家を尻目に、家康は今川家から独立し、宿敵である尾張の織田上総介信長と攻守同盟を結び、義元無き今川領を攻め取り、領土を拡大していき、さらに東へと進軍を開始し始めたのである。
信玄のみならず関東の諸大名は皆、三河松平家の動向に危機感を抱き始めていた。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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