FC2ブログ
2018 11 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2019 01

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

越後直江景綱宛書状

 【03//2012】

越後直江景綱宛書状

永禄七年(1564年)
織田上総介信長は、上杉弾正少弼輝虎の宿老直江大和守景綱と書簡を交換し、
越後上杉家との交流を開始している。

信長と上杉家との最初の接触は、上杉家からのものであった。
信長の美濃平定が近いと睨んだ輝虎は、信長の情勢を掴むため、景綱に信長との交流を命じている。
輝虎が信長の情勢を掴むために問い合わせた書簡に対する信長の返書が今も残されている。

永禄七年(1564年)六月九日付 越後直江景綱宛書状
「玉章(たまずさ)(たちま)ち到来す、謹(つつし)んで拝閲快然(はいえつかいぜん)に候。
そもそも近年は関東に在って御発向、数度利を得られ、平均(ひらならし)のうえ御帰国の由、珍重(ちんちょう)に存じ候。
(したが)って直和(直江大和守)より別して御懇切(ごこんせつ)の条、示し給(たま)わられ候。本懐(ほんかい)の至りに候。
なおもって音問(いんもん)を達すべく候間、つぶさに能(あた)わず候。この旨ご披露仰するところに候。恐々敬白
                                      信長
六月九日
直江大和守殿      」



玉章(たまずさ)
他人を敬い、その手紙・文章をいう語。

「(直江大和守から)このような手紙を頂き、大変嬉しく拝見させて頂いております。
近年、(上杉家は)関東に出兵され、数回にわたり勝利され、(関東を)平定されたうえでの帰国、
おめでとうございます。
直江大和守殿からこのように親切な手紙を頂き、大変ありがたく思っております。
こちらの状況に関しましては、そのうち改めてこちらから書状を差上げますので、その時に詳細についてはご報告させて頂きます。その旨、(上杉輝虎に)お伝えください。」

信長のこのへりくだった対応には驚かされる。
信長は自己の目的を達成するまでは、障害となりかねない相手には、どのようなへりくだった対応をも平然とこなし、彼らと衝突しないように工作を進めていった。
輝虎が信長との交渉に、「当家の方が、立場が上である」という意を込めて、宿老を代理として用いた事にも平然と対応していた。
また信長は、武田徳栄軒信玄にも誼(よしみ)を通じ、急速に接近する工作を始めていた。

勢力を拡大する過程で、深刻な障害となるであろう越後上杉家甲斐武田家の二大勢力を相手に、
信長は慎重に調略を進めていた。

永禄七年は信長が「天下」を意識し始めた年でもあった。
永禄七年(1564年)九月二十八日
禁裏御蔵職(きんりおくらしき)を勤める立入左京亮宗継(たてりさきょうのすけむねつぐ)が、
正親町(おおぎまち)天皇の勅使(ちょくし)として、応仁の乱以降荒んだ御料所の回復や、京都御所の修繕を依頼する密勅(みっちょく)を受け、尾張に下向している。

禁裏御蔵職(きんりおくらしき)
禁裏の金銭・年貢米などの出納,御物保管,必要金の用立て,酒饌の進献などを行った御用の土倉(御倉)をあずかる職であり、朝廷の金融や信託業務,財宝の保管など禁裏財政を切盛りする台所番である。

勅使(ちょくし)
皇帝・天皇・王など国の元首が出す使者のこと。
上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)
中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)
女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。

御料所(ごりょうしょ)
天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。

天皇の勅旨を受けた信長は、その年の十二月
室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(あしかがよしてる)からも、天下統一を促す御内書を受けている。
永禄七年(1564年)十二月二十日
信長は、幕府内談衆(ないだんしゅう)大館左衛門佐晴光(おおだちさえもんのすけはるみつ)あてに
将軍御内書の請状を出している。

「このたび御内書をなし下され候。かたじけなく存じ奉り候。まことに生前の大事これに過ぐるべからず候。
したがって御馬一匹青毛を進上致し候。かくのごとくに候。御とりなし本望たるべく候。恐惶謹言
                                 織田三介 信長
十二月二十日
大館左衛門佐    人々御中 」


信長はこのとき、自分の目標を美濃占領から、天下統一に切り替えたのかもしれない。
美濃を平定し、さらに天下統一を目指すためには、まずは領国経営に専念し、隙をみて上洛を果たさねばならないと信長は考えていた。
以降、直江景綱宛の信長の書状の内容が、卑屈とも思えるほどの内容に変わる。
信長は、息子を輝虎の養子にして欲しいと懇願し、承諾されると光栄であると礼を述べている。
言い方を変えれば、「人質を出すから受け取って下さい。」という事である。
直江景綱宛の礼状は、次のようなものであった。

元亀三年(1572年)十一月七日付 越後直江景綱宛書状
「追って申し入れ候。そもそも御誓談の条々、かたじけなき次第に候。ことに御養子として愚息を召しおかるるの旨、まことに面目の至りに候。いつにおいても路次より様子を進せ置くべく候。向後いよいよ御指南を得て申し談すべく候。此等の趣、御披露本望たるべく候。恐々敬白
                                      信長
十一月七日
直江大和守殿      」


「追って申し上げます。仰せくださった御誓談の数々、在り難い次第であります。
特に、そちらの御養子に我が愚息を召し下さるとのこと、これは私にとって誉れであります。
これはいつ頃、そちらに送り出すべきでしょうか?今後我らに対しどうぞ御指南をしてやって下さい。
この旨、(上杉謙信に)お伝えください。」

謙信を自分の味方にしておくことに細心の注意を払ったことがよく解る書状である。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
スポンサーサイト

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。