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細川右京大夫晴元への讒言

 【08//2012】

細川右京大夫晴元への讒言

大永二年(1522年)二月十三日
三好修理大夫長慶は、三好氏歴代の居館地と伝わる阿波三好郡芝生、現在の徳島県三好市で誕生。
長慶の父三好筑前守元長は、主家細川氏の有力な重臣であり、
主君細川右京大夫晴元(ほそかわうきょうのだいぶはるもと)の仇敵であった細川右京大夫高国を滅ぼし、
晴元を管領職に就けた最大の功労者であった。
しかし、本国の阿波国だけでなく山城国にも勢力を誇っていた元長の勢威を恐れた晴元は、
策謀で蜂起させた一向一揆によって、享禄五年(1532年)六月に元長を殺害している。
当時十歳の長慶(幼名:千熊丸)は、河内守護代であった木沢左京亮長政の仲介や、幼少であるという理由から難を逃れ晴元に従うことになる。

細川 晴元(ほそかわ はるもと)
細川氏宗家 京兆家当主。
武田信玄や本願寺法主顕如の義兄に当たる人物。
畿内で内乱状態にあった細川氏を纏(まと)め、管領に就任したが家臣の三好長慶の反乱で没落、
勢威を取り戻せないまま没した。
実権を持っていた管領としては最後の管領である。

細川 高国(ほそかわ たかくに)
室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。
細川氏一門・野州家の細川政春を実父とし、やがて細川氏嫡流 京兆家の管領細川政元の養子に迎えられ、
11代将軍足利義澄より諱を与えられ、「高国」と名乗った。
細川氏庶流である野州家の生まれであったが、本家を追い落とし、自ら権力を握った人物。

木沢 長政(きざわ ながまさ)
河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。
畠山義就を祖とする畠山総州家の畠山義堯に仕えていたが、細川氏嫡流 京兆家へ鞍替えし、
自らの地位向上に努め、やがては主家を牛耳るほどの勢力を一代で築き上げ、畿内にその名を轟かせた名将。

管領(かんれい)
室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職。
足利氏一門の斯波氏・細川氏・畠山氏の3家が交代で就任し、「三管領」「三職」と称された。
これと侍所頭人に任じられた四職(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)を合わせて「三管四職」と呼ばれる。


天文二年(1533年)六月二十日
晴元が元長を殺害するため策謀で蜂起させた、一向一揆の勢力が次第に強大化していき、
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)が勃発する。
「本福寺明宗跡書」では、
「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」とあり、当時十二歳に過ぎない千熊丸が、細川晴元と一向一揆勢を煽る
本願寺教団との和睦を斡旋(あっせん)したという記事が残されている。
歴史に名を残す人物は、幼少時より我々とは何か違うものを持っている様だ。

明宗(みょうそう)
戦国時代の浄土真宗の僧。近江堅田本福寺第5世住持。

その後、千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称することになる。
天文十七年(1548年)
二十七歳になっていた孫次郎利長は、名を筑前守長慶と改めている。
長慶は、父元長が任命されていた幕府御料所である河内十七箇所の代官職を自らに与えるように晴元に訴えるが、同族の三好越後守政長が任命されていたので聞き入れられずにいた。
政長は晴元からの信任が特に厚く、何かに付け優遇されていた人物であった。
そんな折、遊佐河内守長教から「晴元に讒言(ざんげん)して一向一揆を起こさせ、元長を殺害したのは、
裏で暗躍していた同族の三好政長である」
と聞きつけた長慶は、「宗三(政長)父子の曲事」として、
一族の三好政長を討とうと、晴元に政長父子の追討を願い出た。
しかし長慶のこの訴えは受け入れられず、逆に「三好筑前守(長慶)謀反」とされ、
細川晴元、三好政長らと対立することになる。

御料所(ごりょうしょ)
天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。
料所(りょうしょ)・料(りょう)・御料(ごりょう)・料地(りょうち)・御料地(ごりょうち)等とも呼ばれる。
「王位に付属する領地、すなわち、国王の私有の領地や土地」と定義されている。

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)
鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部、現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、
大阪市鶴見区中・東部に存在した17箇所の荘園群。
単に十七ケとも言う。

遊佐 長教(ゆさ ながのり)
河内畠山氏の重臣で河内守護代。若江城主。

讒言(ざんげん)
事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。


天文十八年(1548年)六月二十四日
両勢は摂津中島の江口で激突。
長慶は宿敵政長ら主だった者八百余名を討ち取って大勝している。(江口の戦い)。
この合戦により、長年に渡って幕政を担ってきた細川政権は崩壊し、消滅することになる。
余談ではあるが、
後に今川義元や織田信長が所持した名刀左文字は、
元々は政長(宗三)の所有物だったので宗三左文字とも呼ばれている。
宗三左文字の名刀はその後、甲斐の武田信虎の手に渡り、信虎から今川義元の手に渡る。
そして桶狭間の戦い後に織田信長の手に渡たる事になる。
本能寺の変により焼失した宗三左文字は、後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、
豊臣秀頼から徳川家康に伝わり現在に至るという。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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