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畿内に一大政権を築き上げた長慶

 【09//2012】

畿内に一大政権を築き上げた長慶

江口の戦いで三好修理大夫長慶に敗れ、三好越後守政長を討ち取られた
管領 細川右京大夫晴元は、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝と前将軍の義晴父子を伴い
近江坂本に逃亡している。
これにより長慶は、畿内の実力者として絶頂を極めていくことになる。

しかし、将軍不在の状態では、幕府は機能せず、京の治安は乱れるばかりであった。
天文二十一年(1552年)二月二十六日
京の治安回復には、幕府の権威将軍の威光が必要であるとし、長慶は近江坂本に逃亡していた
将軍義輝との和睦交渉を進め、義輝を京都二条御所に迎え入れ威に服した。
その際、長慶は幕府御供衆となり、細川家被官から将軍家直臣(じきしん)となった。
幕府御供衆となった長慶は、晴元に代る管領として、細川右京大夫氏綱を擁立し、
幕政改革に着手し始めることになる。
幕府は、第十三代将軍の足利義輝、管領 細川氏綱、そして裏で実権を握る実力者 三好長慶という構図となり、
新たな三好政権が成立することとなった。

近江坂本(おうみさかもと)
滋賀県大津市。延暦寺および日吉大社の門前町として古くから栄えた町。

御供衆(おともしゅう)
将軍の出行に供奉するものであり、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号。
その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、
将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。

直臣(じきしん)
中・近世武家社会における直属の家臣の称。主君の直接支配下に属する家臣のこと。

細川 氏綱(ほそかわ うじつな)
室町幕府最後の管領。
細川尹賢の子で、細川高国の養子。摂津守護。山城淀城主。
管領に任じられるが、三好長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かった。
氏綱の死後、後任の管領が任じられることはなかった。


天文二十二年(1553年)閏一月
幕府内での実権を握り、絶頂を極めたかに見えた長慶であったが、自身の権力基盤を強化することを優先し、
実権と将軍専制に固執した将軍義輝は、長慶とその側近である松永弾正忠久秀の傀儡(かいらい)となる事を拒み、長慶との和約を破棄し、近江坂本で亡命中であった前管領細川右京大夫晴元と密かに通じ、
長慶討伐の御内書(ごないしょ)を発している。

天文二十二年(1553年)七月
将軍義輝から討伐を命じられた細川晴元は、京奪回及び細川政権の復活を目論み、
軍備を整え入京するが、松永弾正率いる軍勢に破れ敗走。
晴元敗走の報せを受けた義輝は、わずかな随伴者(ずいはんしゃ)と共に近江朽木に逃れた。
以降五年間をこの地で過ごした義輝は、
永禄元年(1558年)十一月
六角左京大夫義賢の仲介により、長慶との間に和議を成立させ、再入洛を実現させ、
足利幕府政治を再開している。
しかし将軍不在の五年間に、長慶は丹波八上城の波多野氏を攻め、さらに芥川城を陥落させ、
居城を芥川城として摂津国人衆を勢力下に置くまでに成長していた。
摂津を含む畿内は全て長慶の支配下となり、長慶は三好氏の全盛期を創出していたのである。
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は、
摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和など10カ国に及び、
他に近江・伊賀・若狭などにも影響力を持っていたと言われている。
当時、長慶の勢力に匹敵する大名は他にはなく、長慶の強大な勢力の前に多くの諸大名が誼(よしみ)を通じていた。

御内書(ごないしょ)
室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書。
室町期に足利将軍家によって創始され、形式そのものは差出人が文面に表記される私信と同じものであるが、
将軍自身による花押・署判(署名・捺印)が加えられており、将軍個人の私的性の強い命令書でありながら、
御教書に準じるものとして幕府の公式な命令書と同様の法的効力があった。

六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく しょうてい)
近江六角氏第13代当主。
姉が管領細川晴元正室であったことから、流亡する将軍足利義晴、義輝を助け摂津・三好氏と度々戦い、
また北近江・浅井氏とも争い一時は臣従させる。
しかし、家臣団との内紛があって統率力は弱まっていたため、奈良から脱出してきた足利義昭を庇護しきれず、
後に、義昭を奉じて上洛する尾張・織田氏に反抗して敗れた。
その後も、浅井、本願寺勢らと結んで信長に抵抗するが、制圧され1570年降伏した。
その後、甲賀、伊賀方面でゲリラ活動を展開するがかなわず、本願寺に身を寄せたとも。宇治田原にて病死する。日置流弓術の奥義を修得した腕を持っている。


義輝の帰京以降も長慶の権勢は続いたが、義輝は幕府権力将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力している。
伊達晴宗と稙宗、武田晴信と長尾景虎、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久、毛利元就と大友宗麟、
上杉輝虎と北条氏政と武田晴信など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、
将軍の威信を世に知らしめた。
また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許した。
さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎などの諸大名や足利一門の足利輝氏などに与えている。
また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。
その政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」と評された。
このような経緯を経て、義輝は次第に諸大名から、将軍として認められるようになっていくのである。


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