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剣聖将軍

 【11//2012】

剣聖将軍

永禄七年(1564年)七月
三好修理大夫長慶が病死。
影の絶対的権力者であった長慶の死によって、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝は、
これを好機と捉え、幕府権力の復活に向け、さらなる政治活動を行い始めた。
しかし、長慶の死後、幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永弾正忠久秀三好三人衆にとって、
将軍義輝は邪魔な存在でしかなかった。
そこで久秀と三好三人衆は、室町幕府第十代将軍であった足利義稙の養子・足利左馬頭義維と手を組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する動きを見せ始めた。
久秀と三好三人衆は、ただ闇雲に新将軍擁立に動いていた訳ではなく、義輝が頼みとする近江六角氏が、
永禄六年(1563年)
観音寺騒動以降、領国の近江国を離れられなくなっていた情勢を踏まえた上での行動であった。

足利 義稙(あしかが よしたね)
室町幕府第10代将軍。足利義政の弟義視の嫡男。母は日野政光の娘。
9代将軍足利義尚(よしひさ)の死後、伯母日野富子らに擁立されて将軍職をつぐ。
その後、細川政元の反乱で将軍を廃されたが、大内義興(よしおき)、細川高国の支援で復した。
のち高国と対立し、京都をのがれて淡路(あわじ)(兵庫県)、阿波(あわ)(徳島県)へと移り、将軍職を追われて諸国を流浪した経緯から、「流れ公方」「島の公方」と称された。

足利 義維(あしかが よしつな)
室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男。第10代将軍・足利義稙の養子。
三好元長に擁立され、和泉(いずみ)堺(さかい)にうつり、畿内の実権をにぎるが、
享禄5年元長が敗死したため阿波平島(ひらじま)に戻る。
「平島公方」「阿波公方」と称された。

足利 義栄(あしかが よしひで)
室町幕府第14代将軍。
従兄の13代将軍足利義輝が松永久秀らに暗殺されたのち、三好長逸(ながゆき)らに擁立され、
永禄11年 第14代征夷大将軍となる。
まもなく義輝の弟義昭(よしあき)も織田信長に奉じられて京都にはいったため、阿波(あわ)(徳島県)にのがれ、
永禄11年9月病死。在職7ヵ月。法号は光徳院。

観音寺騒動(かんのんじそうどう)
永禄6年(1563年)に、南近江の戦国大名・六角氏の家中で起こった御家騒動。


久秀と三好三人衆は、主君三好左京大夫義継とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こし、
二条御所を襲撃している。
「公方(将軍)様に引退を勧告」
永禄八年(1565年)五月十八日
久秀は、居城信貴山城を出陣し、京都二条御所へ進軍。

翌、永禄八年(1565年)五月十九日、早朝
異様な殺気に包まれた二条御所で鉄砲の一斉射撃が始まった。
この時、御所の警備は三十名足らずであったと言われている。
謀反を知った義輝は、鎧を纏(まとい)、腰に愛用していた童子切安綱(どうじぎりやすつな)の刀を差し、その他足利家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。
日本刀は思うほど頑丈なものではなく、甲冑や人間の肉、骨を斬れば刃こぼれが起こり、
また人の脂によって切れ味が悪くなってしまうものなのである。
そこで、義輝はあらかじめスペアの刀を用意し、とっかえひっかえ取り替えて襲い来る敵兵に対し剣を振るった。
足利季世記(あしかがきせいき)に、
「扨(さて)公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへ切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし。」と記されている。
義輝は、塚原ト伝(つかはらぼくでん)に剣術指南を受けたおり、
免許皆伝と秘儀「一ノ太刀」を伝えられていた剣豪であった。
「足利尊氏公から伝わる足利将軍家の重宝・童子切安綱の太刀。予の首を取った者に授けよう。」
童子切安綱の太刀を構え、殺到する三好勢に斬りかかる義輝に、数百の兵達はただ逃げるのみであったという。

しかし、いかに剣聖将軍と謳われた義輝であっても、多勢に無勢では限界が来る。
「然るに三好方池田丹後守が子、こさかしきやからにて、戸の脇にかくれて御足をなぎてければ、ころび給ふ上に、障子を倒しかけ奉り、上より鑓にて突き奉る。其の時奥より火をかけ、もえ出でければ、御首をば給はらず。
御年卅歳と聞えし。」

戸の脇に隠れていた池田丹後守の子に足を払われ、転んだ義輝は、上から障子を倒し掛けられ、
動けなくなった所を、障子ごと上から鑓(やり)で突き刺され絶命したと記されている。
享年三十歳であった。

童子切安綱(どうじぎりやすつな)
大原安綱の大傑作で天下五剣の一つ。
伝説の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を切って退治したことからこの名前が付いた。
江戸時代、6人の罪人の死体を積み重ねて6つの死体を切断した後、刃が土台まで届くほど
すさまじい切れ味を誇ったと伝えられている。
信長、秀吉、家康と時の権力者の手に渡った後、現在は国宝として東京国立博物館に眠る。

塚原ト伝(つかはらぼくでん)
日本の戦国時代の剣豪、兵法家。諱は高幹(たかもと)。号は卜傳。
父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた人物。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
室町幕府の初代征夷大将軍。足利将軍家の祖。

足利季世記(あしかがきせいき)
1487‐1571年の畿内の合戦記。作者、成立年代ともに不明。
足利義尚や畠山政長の死に筆を起こし、1493年(明応2)細川政元が将軍を廃立した事件や、
政元の死後細川氏が分裂・衰退してゆく過程、これに代わり三好氏や松永氏が実権を掌握し京都を支配、
1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を奉じて入京する経緯を、所々に文書を織り込んで説明している。





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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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