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義信謀反事件

 【14//2012】

義信謀反事件

永禄八年(1565年)十一月十三日
織田上総介信長は、甲斐の武田徳栄軒信玄と同盟を結ぶため、
美濃国苗木城主遠山勘太郎直廉の娘を信長養女として、諏訪四郎勝頼に嫁がせている。
これは上杉弾正少弼輝虎によって、これまでの北進政策事業が途中で遂行できなくなった信玄が、
次に目を向けるのが「美濃」であることが予測できた為に行われた婚姻同盟であった。(甲尾同盟

遠山 直廉(とおやま なおかど)
戦国時代の武将。美濃国東部恵那郡国衆、苗木城主。
尾張国を統一した織田信長の妹を正室として迎える。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いに苗木勘太郎の名乗りで織田方として参戦。
永禄8年(1565年)信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)の室として、娘(遠山夫人)を信長の養女として嫁がせている。


また信玄にとっても織田家との同盟は意味のあるものであった。
この頃の関東はめまぐるしい情勢の変化で、各諸大名の間に緊張が生じていた。
五度に渡る川中島合戦や、今川治部大輔義元が討死した桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に、
武田家と今川家の同盟関係にも亀裂が生じ始めていた。
それは、三河国岡崎城主松平蔵人佐家康による今川氏領国への侵攻が大きな原因であった。
家康の動きに危機感をつのらせていた信玄は、家康の動きを抑制する為、
「駿河国今川氏領国への侵攻」を模索し始めていた。
信玄が信長と同盟を結ぶ最大の理由は、「家康の動きを抑制」する事も少なからずあったと思われるが、「嫡男武田太郎義信の廃嫡」が最も大きな要因であったものと思われる。

永禄八年十月十五日
甲斐武田家中を震撼させるある大事件が起こる。
武田信玄の嫡男武田太郎義信 廃嫡

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によると、
永禄七年(1564年)七月
義信の傅役である飯富兵部少輔虎昌(おぶとらまさ)、側近の長坂源五郎昌国(ながさかげんごろうまさくに)
曽根周防守昌清(そねまさきよ)らが信玄暗殺の密談をしていたが、計画は事前に虎昌の実弟である
山県三郎兵衛尉昌景(やまがたまさかげ)の密書により露見する。

永禄八年(1565年)一月
飯富虎昌以下は、謀反の首謀者として処刑され、八十騎の家臣団は追放処分となった。
さらに、嫡男義信も同罪として同年十月に甲府東光寺に幽閉され、今川義元の娘嶺松院(れいしょういん)
強制的離縁の上、後継者としての地位を失う。
世にいう「義信事件」は甲斐武田家を二分する可能性を秘めた大事件であった。
未遂に終わったとは言え、先代信虎の代からの功臣である飯富虎昌を始め、義信に連座して八十名以上の者が
切腹・追放となった。

永禄十年(1567年)十月十九日
義信は幽閉先の甲府東光寺にて死去。享年三十歳。
義信の死因については色々と諸説があり、病死との説や、信玄が切腹を命じたという説もある。
また幽閉生活と廃嫡を絶望した義信が自ら命を断ったとの説もある。
余談ではあるが義信が切腹(死去)した十月十九日は、彼の師傅である飯富虎昌が切腹した日と同日である。

飯富 虎昌(おぶ とらまさ)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。
武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃佐久郡内山城を領した。
「甲山の猛虎」と呼ばれ、敵味方から恐れられたほどの猛将であり、武田二十四将の一人に挙げられる。
虎昌の部隊は全員が赤い軍装で揃えられ、武田の赤備えとして、精強武田軍団の代名詞ともなった。
のちに弟の山県昌景をはじめ、井伊直政や真田信繁(幸村)等が赤備えを受け継いでいる。

長坂 昌国(ながさか まさくに)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。源五郎。左衛門尉。筑後守。奥近習六人衆。
永禄8年6月に「義信事件」に関与して処刑されたとあるが、処刑されたのは従弟の清四郎勝繁であるとされ、
実際は1582年の天目山の合戦時に自害したとされる。

曽根 昌清(そね まさきよ)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。奥近習六人衆の一人。
信玄の嫡男武田義信の乳人子であり義信に仕えた。
永禄8年6月、「義信事件」に関与したことで切腹を命じられる。

山県 昌景(やまがた まさかげ)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、武田四天王の一人。旧名 飯富源四郎。
飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている。
血族である虎昌が関与している事を承知の上で「義信事件」を信玄に訴えたという功績から、虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父・武田信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたといわれている。


また、この事件には色々と諸説がある。
義信謀反の計画を弟昌景に伝わるように虎昌自身が画策し、義信をかばって首謀者として断罪されたともされる一方で、信玄の信濃経略や、上杉謙信との度重なる抗争に反対することが多く、また、武田家中で大きな勢力を誇っていた飯富虎昌を、義信謀反を契機として信玄自らが粛清に及んだとする説もある。
虎昌と同じく、穴山彦六郎信君の弟・信邦も連座して切腹していることから、親今川派国人衆の反発という側面も指摘されている。

事件後の永禄十年(1567年)八月七日
小県郡生島足島神社において、甲斐領国内の家臣団に信玄への忠誠を誓わせた起請文が奉納されている。
これは事件後に生じた家臣団の動揺を鎮める為でもあったとされる。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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