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松平姓から徳川姓へ

 【15//2012】

松平姓から徳川姓へ

三河一向一揆鎮圧後わずか数カ月のうちに、松平蔵人佐家康
東三河までも制圧することに成功していた。
永禄七年(1564年)
渥美郡二連木城主戸田主殿助重貞(とだしげさだ)松平家従属を皮切りに、
東三河国人衆が概ね松平氏に転属。
この情勢への対応に迫られた宝飯郡牛久保城主牧野右馬允成定(まきのなりさだ)は、
永禄七年(1564年)五月九日
岡崎城で家康の謁見(えっけん)を受け、判物(はんもつ)の給付により所領安堵され牛久保城を開城、松平家の威に服した。
牧野氏の従属・牛久保開城により松平蔵人佐家康の東三河併合は決定的となり、
残すは東三河における今川方最重要戦略拠点である渥美郡吉田城(今橋城)を残すのみとなった。

二連木城(にれんぎじょう)
朝倉川南岸の三河国渥美郡の北の端に有った戦国時代の城。
「楡(にれ)の木」から名が付いたと言われ、仁連木城とも書く。
明応2年(1493年)、戸田氏中興の祖戸田宗光が築城したとされる城。

戸田 重貞(とだ しげさだ)
戦国時代の武将。戸田氏宗家の15代当主。
通称は主殿助。松平姓を賜ったとされ、松平主殿助、松平丹波守とも。

牛久保城(うしくぼじょう)
三河国宝飯郡牛久保にあった戦国時代の城。
三河国聞書・三河国ニ葉松によると、牧野出羽守保成の築城とされる。

牧野 成定(まきの なりさだ)
三河国宝飯郡牛久保城の城主。牧野貞成の養子となり、牛久保城主となる。
初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父にあたる。
通称(仮名)は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという。

判物(はんもつ)
室町時代から江戸時代にかけて出された武家文書の一つで、上位の立場にある者が発給した文書のうち、
差出人の花押が付されたものを指す。
特に公的性質の強い文書に用いられ、家臣に対する所領の給付や安堵、感状など主従関係において
重要性・永続性が必要とされる文書に対して用いられた。


北の豊川対岸の下地(しもじ)や東の二連木城(にれんぎじょう)、南の喜見寺砦(きげんじとりで)を松平勢に押さえられ、
孤立してしまった吉田城代大原肥前守鎮実(おはらしずざね)は、松平軍からの和議案を受け入れ、開城退去。
今川方の三河拠点は完全に消失し、家康は念願であった「三河平定」を成し遂げたのである。
しかし以後、松平家の快進撃は影を潜める事になる。

小原 鎮実(おはら しずざね)
戦国時代の武将。今川氏の家臣。官途は肥前守を称す。
三河国吉田城、遠江国宇津山城、駿河国花沢城の城代。
また、大原 資良(おおはらすけよし)と同一人物ともされる。


永禄八年(1565年)十一月十三日
家康にとって思いもよらなかった事態が勃発する。
それは織田上総介信長と、甲斐の武田徳栄軒信玄との同盟であった。(甲尾同盟
家康にとって同盟者である信長が、甲相駿三国同盟で今川家と同盟を結ぶ武田家と同盟を結ぶことによって、
家康は今川領に兵を進める事が出来なくなり、動きが取れなくなってしまったのである。
以降三年間、家康は遠江国に兵を進めることができず、領国経営に力を入れることになる。


三河の領国経営に着手した家康は、「三河国の完全なる支配者」となる為、
永禄九年(1566年)十二月二十九日
従五位下、三河守に任ぜられ、松平姓を「徳川」と改めている。
家康は、自身の家系を「松平一族中で別格の存在である」
内外に認知させることが必要であると考えていた。
そもそも、三河国には松平姓の豪族が盤距(ばんきょ)しており、松平清康系統である家康の松平家が宗家とされているが、その支配権は絶対的なものではなかった。
そこで家康は、「清和源氏系得川氏の末裔」であるとする、限りなく黒に近い濃い目のグレー色をした家系図を作成し、関白左大臣近衛前久(このえさきひさ)に働きかけ、勅許(ちょっきょ)を得て、
遠祖の姓である「得川」の字を「徳川」と改め姓とした。

勅許(ちょっきょ)
天皇の許可。勅命による許可。

今まで好きに改名していた家康が何故、今回は改名するのに朝廷の許可を求めたのか。
それは朝廷からの許しを得て「徳川」と名乗るという事は、
朝廷が家康を「源氏の末裔」と認めたという事になるからである。
朝廷に認められ、「清和源氏系得川氏の末裔」となった家康は、同時に従五位下・三河守に叙任されている。
家康の「徳川」改名は、「三河守任官」の為でもあった。
三河国の「国司」としての権威が家康には必要だったのである。
また、「徳川姓」「松平宗家」のみが名乗り、その他「十八松平」庶家は「松平姓」に留めている。
家康は、「徳川」と「松平」を区別する事により、十八松平庶家を「親族」では無く、
「譜代家臣」と位置付けしたかったのである。
祖父清康、父広忠が「宗家と庶家」の間での紛争で命を落とした事からの教訓であった。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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