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朝倉左衛門督義景上洛

 【20//2012】

朝倉左衛門督義景上洛

永禄十一年(1568年)二月八日
三好三人衆の推挙により、足利義栄(あしかがよしひで)に朝廷から「将軍宣下」がなされ、
義栄は室町幕府第十四代征夷大将軍に就任する。

将軍宣下(しょうぐんせんげ)
天皇が武家政権の長である者に日本国の統治大権を行使する征夷大将軍位を与える儀式のこと。


この報を聞いた義秋の焦りはどの様なものだったのか概ね検討がつく。
その焦りから義景の母広徳院を従二位の尼に任じ、御礼として義秋は義景に、
「上洛」を催促したのである。

永禄十一年(1568年)四月十五日
足利義秋は越前国一乗谷朝倉館において元服し、名を「義昭」と改名している。
義秋は還俗(げんぞく)したものの、まだ武士としての元服の儀式を済ませていなかった。
そこで京都から前関白二条晴良(にじょうはるよし)を招き、烏帽子親には朝倉左衛門督義景を当て、
元服式を執り行なっている。

足利将軍家での烏帽子親は、斯波家、畠山家、細川家など時の管領が務めるのが慣例とされており、
管領家以外のものが烏帽子親(加冠の役)を務めたのは、第十三代将軍足利義輝の元服の際、
六角弾正少弼定頼(ろっかくさだより)が務めて以来であった。
この時定頼は特別に従四位下・弾正少弼に任ぜられたが、義景の場合、もともと従四位下・左衛門督であった事から、烏帽子親として不足は無かった。

六角 定頼(ろっかく さだより)
戦国時代の武将、守護大名。室町幕府管領代、近江守護。
先進的な手法で、内政にも手腕を発揮し、日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じている。
これは後世の一国一城令の基になったと言われている。
また楽市楽座を創始したのも定頼であるとされ、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を
一大商業都市にまで成長させた。
信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したと言われている。


元服の儀式を済ませ、「花押はじめの儀」が行なわれた際、義昭は自ら「征夷大将軍」を宣言し、
署名している。
また義景も「管領代」(将軍補佐代理)として連署している。

花押はじめの儀/判始(はんはじめ)
室町時代、将軍が就任して初めて御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)に花押を署した儀式。

管領代(かんれいだい)
室町幕府の職名。
戦国時代には実質上管領家は細川氏のみであったため、管領は将軍の就位儀式時以外は補任されず、
その時管領に故障があった場合、管領代が指定されて管領の職務を代行した。


管領代となった義景もまた、「天下」を意識し始めるのである。
細川家記(綿考輯録)によると、
「藤考の進めにて義景上洛定める」とある。
「藤孝ハ頻ニ義景ニ勧メテ義昭歸洛(帰洛:きらく)ノ事ヲ評議ス 義景則兵ヲ招クニ近江國ハ多ク朝倉ノ旗下ナル故浅井三田村等ハ千餘(余)、和爾堅田朽木高嶋等五百餘(余)、武田義頼三千餘(余)各催促ニ應ス 総勢貮萬三千餘(二万三千余)ニテ六月十八日出陳ト定ム」
「義昭帰洛」を切々と嘆願する細川兵部大輔藤孝の熱意と、「天下」を意識し始めていた義景は
「上洛」を決意する。

義景は評議の上、浅井・三田村:兵八千、和爾・堅田・朽木・高嶋等:兵五千、武田義頼:兵三千、朝倉:兵七千、
総勢二万三千余の大軍を率いて永禄十一年(1568年)六月十八日に出陣と定めた。

しかしこの時、加賀・能登・越中一向一揆の留守中蜂起の情報が入った。
「初テ加賀能登越中ノ本願寺門徒等代々朝倉家ト兵ヲ構フ 於是(ここにおいて)一揆ノ巨魁(きょかい:頭目)下妻筑前守(下間頼秀:しもつまらいしゅう)義景ノ留守ヲ窺(うかが)ヒ三洲道場ノ弟子并(あわせて)檀那(だんな)トモ八萬餘人(八万余人)ヲ集メ所々口々ヨリ攻入ラント議ス」
加賀、能登、越中の本願寺門徒衆が、朝倉義景の留守を狙い下間筑前守頼秀を総大将に蜂起すると言う報が入った。
総勢八万余人という大規模な一向一揆であるという。

下間 頼秀(しもつま らいしゅう)
本願寺坊官。下間頼玄の長男。官位は筑前守、法名は実恵、実英。

檀那(だんな)
本来仏教の用語で、「布施」を意味する梵語「ダーナ、(दान)」の訳語である。
日本では、後に特定の寺院に属してその経営を助ける人「布施をする人(梵語、ダナパティ。」をも意味するようになって「檀越(だんおつ、だんえつ)」とも称された。


「義景聞テ大ニ驚キ進發ヲ遅滞ス 藤孝以為ラク此事鎮ランスハ大舉ノ計決シ難シト潜ニ大坂ニ至リ本願寺顕如ニ逢テ朝倉ト和睦ヲ諭シ義景ノ娘ヲ以テ顕如ノ長子教如へ妻スノ約ヲナス 」
この状況を沈静させなければ、「義昭の上洛はない」と考えた藤孝は、本願寺顕如に会い、
義景との和睦を諭し、義景の娘を顕如の長子教如の嫁に入れる約束をまとめた。
この藤孝の活躍により、「義昭の上洛」は決定的なものとなった。

本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)
戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。諱は光佐。院号は信樂院。本願寺第十一世。
顕如の時代、本願寺教団は、父の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握に務める一方、管領の細川家や京の公家衆との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えた。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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