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光秀の仕官の謎

 【21//2012】

光秀の仕官の謎

永禄十一年(1568年)六月五日
朝倉左衛門督義景の嫡男である阿若丸(くまわかまる)が急逝している。
細川家記(綿考輯録)に
「義景嫡子阿若丸俄ニ病テ死ス 義景愁傷深ク出陳大ニ延引ス」とある。
義景の愁傷は深く、永禄十一年(1568年)六月十八日の出陣は頓挫(とんざ)してしまった。
細川兵部大輔藤孝は数度にわたって出陣を勧めたが、義景は悲しみのあまり対面もせず、
次第に疎遠となり、上洛は難しいと足利義昭は悩むようになった。

永禄十一年(1568年)六月二十三日
義昭は、織田尾張守信長のもとへ藤孝を使者として向かわせている。
「義昭ヨリ藤孝并上野清信ヲ両使トシテ濃洲岐阜ニ遣ハサル明智十兵衛光秀ヲ紹介トシテ織田上総介信長ニ謁シ足利興復ノ事依頼シケレハ信長武臣ノ面目ナリト領掌シテ先ツ當國ニ座ヲ移サルへシト答フ」
細川兵部大輔藤孝上野中務少輔清信(うえのきよのぶ)は、義昭の使者として
美濃国岐阜城へ赴き、明智十兵衛光秀の紹介で信長に謁見している。

上野 清信(うえの きよのぶ)
戦国時代の武将。本姓は源氏。従五位下、中務少輔。
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流上野氏。
父は幕臣にて備中国鬼邑山城主上野信孝。


「足利将軍家再興の助力」を懇願する藤孝らに対し、信長は「武臣の面目なり」と承諾し、
岐阜に起こし下さいと答えたという。
藤孝より報せを受けた義昭は大いに喜んだ。
信長を頼る事が決まると早速義昭は、嫡子阿若丸の急死で深く傷ついている義景に、
「當時マテノ忠節甚以テ祝着ナリ」と藤孝に挨拶させている。
また細川家記(綿考輯録)には次のような事も記されている。
「阿若丸死去ノ後悲嘆(ひたん)ノ餘リ鬱色アリ此時節治兵ノ催促アラン事心ナキ二似タリ」
「足利義昭」という人物を藤孝がどう思っているかがなんとなく解る一文である。

永禄十一年(1568年)七月十六日
織田信長を頼り義昭ら一行は一乗谷を後にする。

永禄十一年(1568年)七月二十五日
足利義昭が岐阜に到着する。

織田信長への「二度目の上洛要請」は、トントン拍子で進んだようだが、一つ気にかかる事がある。
「明智十兵衛光秀ヲ紹介トシテ織田上総介信長ニ謁シ」
いきなりの光秀登場である。
明智十兵衛光秀の前半生は「謎」であり、詳細はよく解らないのが通説である。
通説では斎藤治部大輔義龍に明智城を攻められ一族が離散した後、母方の若狭武田氏を頼り、
のち越前国の朝倉左衛門督義景に仕えたという。
その後、越前に亡命してきた足利義昭の接待役を義景に命じられた事がきっかけとなり、
光秀は義昭と接触を持つことになる。
義昭は「上洛」を懇願するが一向に義景が動かなかった為、たまりかねた義昭は、
織田信長に自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請している。
光秀が信長の正室である濃姫と従兄妹であった為、その縁を頼ったものといわれている。

また、イエズス会宣教師ルイス・フロイス「日本史: Historia de Iapam」や、
興福寺多聞院英俊(こうふくじたもんいんえいしゅん)「多聞院日記」では、
もとは細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記されている。
「信長公記」では光秀自身の出自に、朝廷と深い関わりがあったと記している。

明智光秀の伝記とされる「明智軍記」(あけちぐんき)では、
朝倉義景に仕えていた光秀は、鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶたいふつぐとも)の讒言(ざんげん)により、
永禄八年(1565年)の冬以降、出仕(しゅっし)が叶わなくなったと記されている。

鞍谷氏(くらたにし)
室町時代に北陸の越前で勢力を持った公方の一つ。鞍谷公方または越前公方ともいう。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門。
足利将軍家の連枝にあたる。
「鞍谷殿」と呼ばれたため便宜上鞍谷氏と呼ぶが、名字は足利氏である。
後に斯波氏からの養子によって継承された。


鞍谷嗣知は光秀をこう評していた。
「光秀は勇敢で、知謀才覚は人に勝り、弁舌も巧みだが、その野心は果てしなく、後々には主君をも欺くであろう。」
イエズス会宣教師ルイス・フロイスも「光秀は裏切りや密会を好む」「計略と策略の達人」などと記している。
また逆に、光秀の言葉として残っているのが、「仏のうそは方便といい、武士のうそは武略という」である。
光秀は「油断のならない人物」として人々の目に映っていたのかもしれない。

「明智軍記」にはこのような記述もある。
義景に出仕が叶わなくなった光秀の下に、織田信長から密かに書簡が送られてきた。
「明智というのは元来斎藤山城守家の臣として、濃州の郡司であった家である。
時に光秀の叔父宗宿入道は、主君義竜の為に忠義を全うし死んでいった者であれば、この信長としても常に其恩に報なければならないと神明に誓って思っていた処に、怨敵竜興を追い出して、会稽の恥辱を雪めて本望を達した。
私は、山城守と意を同じくしているので、光秀も旧里に帰って、再度家を起して、世上に名を知らしめてはどうか。」

という内容の書状であった。
光秀は、永禄九年(1566年)十月九日、越前から濃州岐阜へと参ったと記されている。
信長は光秀に濃州安八郡四千二百貫の所領を授けたとも記されている。
しかし、信長が稲葉山城を攻め落としたのは、永禄十年(1567年)九月初日である。
「光秀の仕官」「信長の稲葉山城攻略」に誤差がある。
やっぱりよく解らない。「謎」だらけである。


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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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