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美濃斎藤家滅亡・プレハブ工法と割り普請

 【03//2013】

美濃斎藤家滅亡・プレハブ工法と割り普請


通説によると、木下藤吉郎秀吉は、蜂須賀小六正勝前野将右衛門長康らと共に
総兵力二千百四十余人を従えて洲股(墨俣)の地に侵攻し、敵の攻撃を防ぎながら数日間で砦を築いたとされる。
事前に「安全な場所で建築資材を調達・加工し、数千本という大量の材木を木曽川に流し(運搬)、
洲股(墨俣)の地(現場)で組み立てる」
という現代でいうプレハブ工法を採用している。

プレハブ工法(プレハブこうほう prefabrication method)
あらかじめ部材を工場で生産・加工し、建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法のこと。


この秀吉が採用したプレハブ工法だが、決して工期短縮という訳ではない。
確かに現場での作業時間は短縮されるが、事前に入念な検討や計画が必要となる。
現代のような機械があるはずも無い為、実際半年以上は準備に費やしていると思われる。
織田尾張守信長は、木下藤吉郎秀吉に、ある重大な密命を与えていた。
それは「過去に捨てた洲股(墨俣)の砦を美濃勢より奪還し、堅固な砦として修繕せよ」というものであった。
秀吉は春先より、蜂須賀正勝や前野長康ら川並衆と共に、夜を日についで働き、洲股(墨俣)侵攻の支度に急いでいたに違いない。

甫庵太閤記(ほあんたいこうき)によると、
「永禄九年九月朔日、北方の渡りより上において筏に組下さんと、悉く城具を川際へ持はこばせ積置しかば、
山の如くに見えけり。川に近き在々所々、加様之事に意得たる者を呼び衆め、筏に組せ給ふ。」


永禄九年(1566年)九月一日
工場での刻み、墨付け作業を終えた秀吉率いる尾張大工衆は、木曽川の川岸の至る所に、山のように積み上げた建築資材を筏(いかだ)に組み、いよいよ洲股(墨俣)に侵攻を開始する準備を整えていた。
洲股(墨俣)築塁には「迅速な行動」が必要とされていた。
万一事前に行動が斎藤勢に露見すれば、数万の兵をもってしも築塁は不可能であると秀吉は解っていた。
「然ば国中之人数三分にして、一分は、敵を抑え、二分は城之普請作事に掛候べし。」
秀吉は隊を三手に分け、その内蜂須賀党の細作らを遊軍として宵のうちに先発させ、警護に当たらせていた。
「九月四日、小牧山へ勢を衆められ、五日之未明に北川之川上に着陣し、美濃の地へ相越先城所に柵を付廻し、
ひたひたと城を拵むとし給ふに、井口より八千余騎之軍勢を段々に押し出し、城之普請をおさへんとせしを、
信長卿見給、敵は多勢なるぞ。柵より外へ出べからず。弓鉄砲にて能く防ぎ候へ。」


永禄九年(1566年)九月四日
小牧山に軍兵、大工、人扶らが集められた。
秀吉は「洲股(墨俣)築塁には迅速な行動が必要である」と説き、各担当を割り振り、
「早く仕事を仕上げた組には莫大な褒美を与える」と約束した。
これは「割り普請」といい、組と組とを競わせ、全体の作業スピードを上げる秀吉が最も得意とした手法である。
まだ秀吉が信長の小者頭に過ぎなかった頃、清洲城の石垣修理の仕事を請負い、瞬く間に完成させて人々を驚かせた秀吉の常套手段であった。

「プレハブ工法」と「割り普請手法」
「洲股(墨俣)築塁」は秀吉にしか出来ない城普請であった。
永禄九年(1566年)九月五日未明
組み分けが決まった者から、資材諸共筏に乗り、一気に川を下り洲股(墨俣)の地を目指した。
戦場での城普請は合戦さながらである。
一足先に洲股(墨俣)の地に向かっていた秀吉は、資材と共に到着する人扶らを指揮し、休む間もなく、
高さ六尺、横木を四段に取り付け、藤蔓、麻縄で二重にしめつけさせた馬柵の取り付け作業を行なっていた。
以前の砦の空堀や土塁の部分がほぼそのままの状態で残っていた為、作業は思いのほか順調に進み、
二重の馬柵は、早くも二百間ほどが連なっていた。
その時、陣鐘がはげしく打ち鳴らされた。
斎藤軍八千余騎が法螺貝を吹きならし、ときの声をあげ、洲股(墨俣)の砦に殺到して来たのである。

「敵は多勢なるぞ。柵より外へ出べからず。弓鉄砲にて能く防ぎ候へ。」
秀吉は事前に配置しておいた足軽鉄砲隊三百挺余に一斉射撃を命じた。
木下隊を弱兵と侮っていた斎藤勢は、馬柵を薙ぎ倒し突入を試みるも、二重の馬柵が思いのほか頑丈で、
それに手間取るうちに秀吉の号令の下、天地も崩れんばかりの、轟音とともに足軽鉄砲隊三百挺余による
一斉射撃が行なわれ、将棋倒しに撃ち倒された斎藤勢は、やむなく退却する。
二度三度と攻め寄せる斉藤勢の騎馬武者による突撃は、明け方迄繰り返されたが、
その度に木下隊の鉄砲の餌食となった。
「かようの時之手柄は敵をば討ず共、唯要害之普請を出来しぬるが本意なるぞと下知し給ひければ」
「敵がどれほど仕掛けて来ようとも、これに構わず砦造りに専念よせ。」秀吉は徹底していた。
その後も斉藤軍の攻撃は執拗に繰り返されたが、
「普請之人々は夜は日に続て急ぎ、七日八日には、大形城も出来、塀櫓をもし立、其夜にぬり立、長屋に至るまで残る所もなく、いよやかに見えしかば、敵も輿をさましけるぞと聞えし。扨掘普請に悉く急がせ給ひけるに、
是も程なく出来しければ、武具兵糧等入置れ、藤吉郎に番手之士共相添、すえ置給ふ。」

寝る間も惜しみ立ち働き続けた秀吉は、ついに洲股(墨俣)築塁を成し遂げたのである。
昼夜兼行の普請によって七、八日のうちに、堀や馬柵をかため、矢倉をあげ、白壁が塗り上げられ、武者長屋、
馬屋に至るまで、大方城郭としての体裁を整えた。
思いがけない事態の進展に、攻めあぐねるばかりであった斎藤勢は、戦意を喪失し撤退する。
「洲股(墨俣)築塁成功」の報せを受けた信長は、大層喜び銀子百枚、金子五十枚を与え、
佐久間信盛、滝川一益の手勢より八百余人を秀吉の配下に加え、洲股(墨俣)の城主とした。
この破格の待遇に、秀吉は額を地に着け涙を流し喜んだという。


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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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