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天下取りの意思を天下に知らしめるための改名

 【10//2013】

天下取りの意思を天下に知らしめるための改名


永禄十年(1567年)八月十五日
稲葉山城(井口城)を攻略した織田尾張守信長は、
「井口」「岐阜」と改め居城を移している。
通説では、「岐阜」という地名の由来は、
「周の文王(ぶんのう)が岐山より起り、天下を定む」という中国の古事や、
孔子の誕生地が「曲阜(きょくふ)であったことから、その名がついたとされている。

文王(ぶんのう、ぶんおう)
中国周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。周王朝の創始者である武王の父。
賢者を敬い、太公望などの名臣を集め、周囲の諸族を征服し、陝西に力を振るった。

孔子(こうし)
中国春秋時代の思想家、政治家、指導者。
魯の大臣になり、のち諸国を巡歴し理想の道を説いた。
再び魯に戻り、子弟の教育にあたりながら、経書を編集、仁を理想の徳として、実生活にも生かそうとした。
漢以後もその教えは国教とされた。

曲阜(きょくふ)
周・春秋時代の魯国の故地であるほか、孔子の生地として世界に知られている。
曲阜は中国政府の「国家歴史文化名城」(歴史都市)の称号が真先にあたえられたほか、1994年にユネスコの世界遺産にも登録されている。


江戸時代中期の尾張藩の記録「安土創業録」や、
宝暦六年(1758年)に尾張藩儒学者松平君山(まつだいらくんざん)が編纂した「濃陽志略」にも信長命名とある。
また「安土創業録」の記述を引用して記されたとされる、
明治十八年(1885年)に長瀬寛二が編纂した「岐阜志略」にも、
「岐阜は織田信長始て名付られしとぞ創業録に曰信長は井ノ口の城手に入けれは澤彦和尚へ使者を以て爰に来り給へ宣ふ澤彦井ノ口に到る信長兼て小侍従と云者に宿を仰付らる信長澤彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し名を易給へと澤彦老師岐山岐陽岐阜此内御好次第にしかるべしと信長曰諸人云よき岐阜然るべしと祝語も候哉と澤彦曰周文王起岐山定天下語あり此を以て岐阜と名付候無程天下を知召候はんと信長感悦不斜額の名盆に黄金を積て賜り此盆は豊後の屋形より来る秘蔵有へしと仰せける」
信長が初めて「岐阜」と命名したと記されている。


「井口」という名が気に入らなかった信長は、政治顧問ともいうべき臨済宗妙心寺派の禅僧である
沢彦宗恩(たくげんそうおん)に改名を指示する。
そこで沢彦が、「天下取りの意思を天下に知らしめるための名」として、
「岐山」「岐陽」「岐阜」を候補に挙げ、その中から発音しやすい「岐阜」が選ばれたとされている。
その際沢彦が「祝語」として「周の文王の古事」を述べ、その古事を聞き喜んだ信長が沢彦に黄金を与えたと云う。

沢彦宗恩(たくげんそうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国周の故事にならい沢彦の挙げた
「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。


しかし、「岐阜」という名は「信長命名」以前から使われていたという異説もある。
大正四年(1915年)に岐阜市教育会が編集した「岐阜市案内」では、
「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記されている。
また、編者不明で江戸時代(年代不詳)に編纂されたとされる「美濃国諸旧記」によると、
「山を岐山といひ、里を岐阜といふ事、昔明応の頃より、永正の頃迄の旧記に、岐阜・今泉・桑田・中節・井ノ口といひけるを、信長公御入城の後、沓井・吉田をあはせ、加納と号し、中節・井ノ口・今泉・桑田を合せて岐阜と定めらるる。」と記されている。
明応(めいおう)は、1492年から1501年までの期間を指し、永正(えいしょう)は、1504年から1520年までの期間を指す。
という事は、永禄十年(1567年)に信長が美濃を攻略する七十五年も前から「岐阜」の名は使われていたという事になる。



「岐阜という地名は昔からあった」
元々使われていたが、支配者が変わり使われなくなった「岐阜」という名を信長が復活させたのではないか。
「岐阜改名」は単に支配者が替わった事を世に知らしめる目的での改名なのでは・・・・。
これから将軍候補者である足利義昭を担ぎ、上洛して天下に号令を掛けようと目論む信長が、
「天下取りの意思を天下に知らしめるため」の改名を果たしてするだろうか。
また越後国の上杉弾正少弼輝虎や、甲斐国の武田徳栄軒信玄を警戒している信長が、
「美濃を制するものは天下を制す」と称される美濃の地で
「天下取りの意思を天下に知らしめるための改名」を行なえばどうなるのか、信長が「天才」でなくても解るものである。
「天下取りの意思」を示すにはまだ時期が早すぎるのである。


「天下取りの意思を出来るだけ悟られないことが肝心である」と考えていた信長は、改名にも細心の注意を払っていた。
そこで信長の真意を良く理解していた沢彦が、旧名である「岐山」、「岐陽」、「岐阜」を候補に挙げ、
「祝語」として「周の文王の古事」を述べた。
喜んだ信長は沢彦に、黄金を与えた。
という事が一番しっくりくるのではないだろうか・・・・・・。




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