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天下泰平を望む信長の強い意思

 【11//2013】

天下泰平を望む信長の強い意思


永禄十年(1567年)十一月九日
居城を岐阜城に移した織田尾張守信長に、
正親町天皇(おおぎまちてんのう)より綸旨(りんじ)が下された。

尾張と美濃両国にある天皇家の領地、「御料所を回復せよ」という内容のものであった。
「今度、国々本意に属すの由、武勇の長上(ちょうじょう)、天道に感応(かんのう)す、古今無双の名将、いよいよこれ乗り勝つられべく条、勿論たり。就中、両国御料所、且は、御目録を出ださるるの条、厳重に申しつけらるれば神妙たるべきの旨、綸命かくの如し。
これを悉すに状を以ってす。」

尾張と美濃を平定したのはその武勇と天の導きであり、その両方を兼ね備える信長こそが「古今無双の名将」であると褒め称え、上洛を勧めた。
当時の概念で言うと「天下」とは、「天下人」と称される足利将軍や天皇を指していた。
その伝統的な権威である天皇が信長を認めたのである。

正親町天皇(おおぎまちてんのう)
第106代天皇。後奈良天皇の第2皇子。母は藤原栄子(吉徳門院)。
弘治3年父後奈良天皇の死で践祚(せんそ)したが、即位式は毛利元就らの献金により3年後におこなわれた。
織田信長、豊臣秀吉らの援助で宿願だった皇居の修理、伊勢神宮の造営や遷宮、朝儀の復興などにつくした。

綸旨(りんじ)
「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した
公文書の要素を持った奉書。
御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。

御料所(ごりょうしょ)
天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)。


「武力」では得る事が出来ない勝利も、「権威を掌中に収める事」で武力を使わずに手に入れる事が出来るのである。
「権威を掌中に収める」とは、「天下人」と称される足利将軍や天皇を「掌中に収める」事を意味していた。
しかしそれは日本の中央である京都にいてこそ機能するのである。
そこで信長は、再度「義昭を擁して上洛する」という構想を練り始めた。
この頃から信長は、「天下布武」の印判を使用し始めるようになる。

「天下布武」とは「天下に武を布(し)く」、武力を持って天下を統一するという事である。
しかし、越後国の上杉弾正少弼輝虎や、甲斐国の武田徳栄軒信玄を警戒している信長が、
「武力を持って天下を統一する」などと豪語するのには少し時期が早すぎる様な気がする。


この「天下布武」には異説もある。
「武」とは、「武力」ではなく正しくは「戈(ほこ)を止(と)める」という。
「武器を手にしての戦いを止める」という事を意味している。
「天下布武」とは「七徳の武」をもって天下を治めるという春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)を引用した言葉である。
武の七つの徳「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」を全て兼ね揃えた者が天下を治めるに相応しいという。
また、「天下」とは、「日本全土」という意味ではなく、「天の下」、この世の中、という意味であるという。
この「天下布武」の思想を信長に授けたのも臨済宗妙心寺派の禅僧である沢彦宗恩(たくげんそうおん)であるとされている。
異説の方がしっくり来る。

春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)
孔子の編纂と伝えられる歴史書「春秋」の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。
通称「左伝」(さでん)。「春秋左伝」、「左氏伝」ともいう。
現存する他の注釈書として「春秋公羊伝」、「春秋穀梁伝」とあわせて春秋三伝と呼ばれている。

沢彦宗恩(たくげんそうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国周の故事にならい沢彦の挙げた
「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。


また信長は、「天下泰平」を強く望んでいたとも言われており、岐阜城下の繁栄を願った「楽市楽座」の制札に、天下泰平の世にしか姿を見せないと言われる古代中国の空想上の動物、麒麟(きりん)「麟」の字をかたどった花押を使用している。
この花押が意味することは、自らの政権の基盤を強化し、乱れた天下を泰平に導こうとする信長の強い意思表示が込められている。

天下泰平(てんかたいへい)
争い事や揉め事が起こらず、良い治安、安定した秩序がある状態。

麒麟(きりん)
中国神話の伝説上の動物。鳥類の長である鳳凰と並び獣類の長とされる。
神聖な幻の動物と考えられており、1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がるという。
王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物(=瑞獣)であるとされ、鳳凰、亀、龍と共に「四霊」と総称されている。


政権基盤の強化を図る信長は、荒廃した岐阜城下の加納地域の復興につとめ、
その施策として楽市楽座の制札を発給している。
加納楽市場の「定」は、主に以下の三箇条からなる。
一、当市場越居之者、分国往還不可有煩、并借銭・借米・地子・諸役令免許訖、雖為譜代相伝之者、不可有違乱之事
一、不可押買・狼藉・喧嘩・口論事
一、不可理不尽之使入、執宿非分不可懸申事
右条々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、
                       永禄十年十月日     (信長)

一、加納に移り住む者には、信長が治める領地内の通行は自由とし、借金、借米、借地料その他諸税負担は一切免除する。
   織田家譜代家臣といえども制札にそむいてはならない。(商人に圧力を掛けてはいけない。)
一、権力を使っての売買行為、狼藉、喧嘩、口論は禁じる
一、不法な用件の使者(身元不明者)を市場に入れての横暴、宿泊を禁じる

信長は市場を「座」の制度から開放し、自由な取引を行なわせ、
商業の繁栄による経済政策を行なったのである。

平安の時代より寺社や公卿が独占販売権、非課税権、不入権などの特権を有していた為、商売を行なおうとする者は、
寺社や公卿の許可を得て「座」と呼ばれる組織に入り、商いの権利を与えてもらう代わりに「座銭」というものを
寺社や公卿に納める必要があった。
その為、当時の経済的利益のほとんどが寺社や公卿によって独占され既得権化していたのである。
そこで信長は座の制度を排除し、絶対的な領主権の確立を目指すとともに、
税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図ったと言われている。
しかし信長は領内のすべての市場を楽市場とした訳ではなく、「特例」として加納市場のみに限定している。
それは戦火を逃れ四散した町人の復帰と、灰燼に帰した岐阜城下町の復旧を迅速に行なう為の「特例」であった。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは日本史に、
「岐阜城下は、八千ないし一万の人口を数え、取引や用務で往来する人々の数はおびただしく、塩を積んだ多くの馬や、反物、その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっており、世界文化の中心として栄えた古代都市バビロンの繁栄を思わせるほどであった。」と当時の岐阜城下の繁栄を記している。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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