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斎藤道三 その所業の数々は真っ赤な「嘘」?

 【18//2014】

謎を呼ぶ2つの資料


土岐左京大夫頼芸の信任篤い西村勘九郎正利は、同じく頼芸の信任を得ていた
長井藤左衛門長弘が、「国を盗る」為に邪魔な存在になると考え、除去を画策しはじめるのである。


戦国Check✓

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

長井 長弘(ながい ながひろ)
戦国時代の武将。通称は藤左衛門、弥二郎。官位は越中守。美濃小守護代。美濃関城主。
美濃守護土岐政房の後継を巡り、政房の嫡男頼武と次男頼芸が対立。
頼芸を実質的な守護の座に就かせる為、斎藤道三と共に頼芸を擁立し、頼武を越前に追放する。
事に成功した長弘は、守護代斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。
しかし、「不行跡の罪」或いは「頼武と内通した」として上意討ちの名目で斎藤道三に殺される。



美濃国諸家系譜によれば、
天文二年(1533年)
勘九郎正利は、越前国に追放された土岐修理大夫頼武と内通しているとの謀反の疑いをかけ、
上意討ちの名目で、長井長弘を殺害し、長井氏を乗っ取り相続している。

そして名を、長井新九郎規秀と改めるのであるが、
「六角承禎条書写」には、
新九郎規秀は、長井新左衛門尉の子とする文書が残されている。


戦国Check✓

美濃国諸家系譜(みののくにしょかけいふ)
戦国時代から安土桃山時代頃の美濃国の武家の系図を記した書物とされている。
斎藤一族、林一族の系図や土岐支族蜂屋支流の系図など、中世武家系図としてはかなり貴重な系図を収録している。

土岐 頼武(とき よりたけ)
戦国時代の武将。通称は次郎。官位は修理大夫。美濃守護。美濃土岐家第十四代当主。
斎藤道三に擁立された、弟土岐頼芸により越前に追放され、美濃守護職と土岐家の家督を奪われる。
奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷から許可された五名の内の一人。

上意討ち(じょういうち)
主君の命を受けて、罪人を討つこと。


六角承禎条書写とは、
近江国守護六角左京大夫義賢(承禎)が、
家臣である平井右兵衛尉定武蒲生左兵衛大夫定秀らに宛てた
全文十四ヶ条から成る書状であり、義賢が嫡男の六角右衛門督義治
斎藤治部大輔義龍の娘との縁組を阻止することを家臣に命じた内要のものである。


戦国Check✓

六角承禎条書写(ろっかくじょうていじょうしょうつし)
「岐阜県史」編纂の過程で発見された古文書。
永禄三年(1560年)近江国守護、六角承禎が家臣に宛てた書状。

長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)
戦国時代の武将。山崎の油売りを経て土岐家臣長井長弘に仕える。
大永五年、長井長弘と共に土岐頼武に謀反する。天文二年没。斎藤道三の父とされる。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

六角 義賢(ろっかく よしかた)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は四郎。官位は左京大夫。近江守護。宇多源氏佐々木氏流六角家第十五代当主。
足利義晴、義輝らを庇護して三好長慶らとたたかい、近江では江北の戦国大名浅井氏と戦闘を繰り返すなど、
南近江で圧倒的な勢力を誇ったが、観音寺騒動により六角家家臣たちの忠誠心は急速に薄れ、
上洛を目指す織田信長の近江進撃によって滅亡。

平井 定武(ひらい さだたけ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。官位は右兵衛尉、加賀守。近江六角家臣。近江平井城主。
後藤賢豊や蒲生賢秀、三雲成持らと並んで、六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、
近江国栗太郡平井に拠点を構えたとされる。

蒲生 定秀(がもう さだひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は藤十郎。官位は下野守、左兵衛大夫。近江六角家臣。近江日野城主。
後藤賢豊や蒲生賢秀、三雲成持らと並んで、六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、
近江国蒲生郡日野に拠点を構えたとされる。

六角 義治(ろっかく よしはる)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は四郎。官位は右衛門督。近江守護。宇多源氏佐々木氏流六角家第十六代当主。
観音寺騒動で家臣団から追われ一時没落するが、その後石部城を拠点に、足利将軍家、上杉氏、武田氏らを動員した
織田信長包囲網の構築を御膳立てするなど再興のために戦った。
晩年は豊臣秀吉の御伽衆として足利義昭や斯波義銀らとともに仕えたとされ、
秀吉の死後は豊臣秀頼の弓矢の師範を務めた。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。




この書状の内容は、油売りから身を起こし、戦国大名に成り上がった斎藤山城守道三を記している
江戸時代の軍記もの「美濃国諸旧記」に記されている内容とまったく違うものであった。


戦国Check✓

美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)
江戸寛永年間頃に戦国時代から安土桃山時代頃の美濃国の歴史を記した書物とされている。
著者不明。成立年代不明などの事から歴史的史料価値には諸説ある。





「六角承禎条書写」 [永禄三年(1560年)七月付] によると、

○斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。

○新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。

○新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。

○義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、 諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。

○道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

と記されている。



この内容からすると、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、
長井新左衛門と父子二代にわたるものとする見解が有力となってくる。

この書状が記された時期は、桶狭間の戦いが起こり、美濃国が緊迫状況に直面した頃である。

また、道三によって美濃国を追放された土岐頼芸が妹婿であった六角義賢に保護されていたこともあり、
非常に信頼性の高い書状と言えるのではないかとされている。

間違いなく義賢は、頼芸から斎藤道三の人物像や、その所業の数々を聞かされていたはずである。


戦国Check✓

妙覚寺(みょうかくじ)
山城国二条衣棚(現在の京都府京都市上京区)にある日蓮宗本山(由緒寺院)。山号は具足山。
京都ではじめて日蓮宗を布教して洛陽開山と尊称された日像が、元亨元年(1321年)開創。
建武新政から南北朝内乱に至る政局の激動期に巧みに対処し、公武の間にしだいに寺基を安定させた。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。



次回 第二十一話 下克上の最終段階 ⇒




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