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短気でキレやすい性格で何が悪い。世は乱世ぞ!

 【18//2014】

第二次安城合戦




天文十四年(1545年)
三河岡崎城主松平次郎三郎広忠が、三河安祥城奪還のため出陣。

三河安祥城の守りを任されていたのが、織田弾正忠信秀の庶長子織田三郎五郎信広であった。
庶長子とはいえ、三河侵攻の最重要拠点である三河安祥城を任されていたことからも、
織田弾正忠家での期待度は高かったものと思われる。


戦国Check✓

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

青銭大名 東郷 隆(著)
いくさの子 織田三郎信長伝 (ゼノンコミックス) 原哲夫(漫画) 北原星望(原作)
桶狭間戦記 (講談社) 宮下 英樹(著)
織田三代記 羽生 道英(著)
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ 嶋津 義忠(著)



天文十四年(1545年)九月
織田・松平両軍は、安祥城近辺の清縄手で激突する。

三河勢の一歩も引かぬ奮戦により、三河安祥城の織田信広勢が劣勢に傾きかけた時、
援軍に駆けつけた織田弾正忠信秀が、三河勢の背後から攻撃する。
三河勢もこれを迎え撃とうとするが、その隙を突いて安祥城から三郎五郎信広が自ら城を打って出て来た為、
松平次郎三郎広忠は、挟撃を受ける形となった。

退路を断たれることを恐れた松平家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、
広忠はそれを聞き入れず突撃を敢行する。

家臣の進言を聞き入れず、突撃を敢行した広忠は、自己の安全も絶望視される状態を作り上げてしまう。

広忠は討死を覚悟するが、重臣の本多吉右衛門忠豊(本多平八郎忠勝の祖父)が、
広忠の馬印を奪い取り、広忠の身代わりとなって織田信秀本陣深く突撃。

本多忠豊は織田勢の注意を引く事に成功し、広忠や生き残った松平勢は三河岡崎城への退却に成功する。

しかし身代わりとなり突撃した本多忠豊は討死することになった。


戦国Check✓

縄手(なわて)
三河国碧海郡安城縄手(現在の愛知県安城市安城町)辺りの地。

挟撃(きょうげき)
両方からはさみ撃ちにすること。

本多 忠豊(ほんだ ただとよ)
戦国時代の武将。通称は平八郎、吉右衛門。三河松平家臣。藤原北家兼通流本多家第九代当主。

馬印(うまじるし)
戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。




短気でキレやすい松平宗家
享禄二年(1529年)
三河今橋城主牧野伝蔵信成を攻めた下地合戦での父松平二郎三郎清康にしろ、

元亀三年(1573年)
武田軍の西上作戦の過程で行われた三方ヶ原の戦いでの息子徳川蔵人佐家康にしろ、

松平宗家の歴代当主は皆、怒りで我を忘れ、死地を臨む傾向がある。
松平宗家の人々は「カッ」となりやすい短気でキレやすい性格なのかもしれない。


戦国Check✓

牧野 信成(まきの のぶしげ)
戦国時代の武将。通称は伝蔵・田三・田三郎。三河今橋城主(吉田城)。
享禄二年(1529年)、松平清康の進攻を受けて居城今橋城落城。信成は一族郎党七十余名と共に討死。
異説ではあるが、下地合戦、今橋落城を天文元年(1532年)とする説が存在する。

下地合戦(しもじかっせん)
享禄二年(1529年)五月二十七日に三河国下地で行われた合戦。
東三河に侵攻する猛将松平清康とそれを迎え撃つ三河今橋城主牧野信成との合戦。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
元亀三年(1573年)十二月二十二日に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、
武田信玄軍二万七千人と徳川家康軍一万千人(うち織田信長からの援軍三千人)との間で行われた戦い。
徳川家康が大敗したことで有名な戦。

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、
太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。




次回 第二十三話 大馬印由来諸説 ⇒




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