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家康の馬印ってどんな物か知っていますか?

 【13//2015】

大馬印由来諸説

天文十四年(1545年)九月二十日

三河松平家臣本多吉右衛門忠豊は、主君松平次郎三郎広忠から馬印を奪い取り、
主君の身代わりとなって織田勢に突撃し討死している。


戦国Check✓

本多 忠豊(ほんだ ただとよ)
戦国時代の武将。通称は平八郎、吉右衛門。三河松平家臣。藤原北家兼通流本多家第九代当主。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。




この馬印には色々と諸説がある。

後年、広忠の嫡男である徳川家康は、金扇の大馬印を用いたことで知られるが、
その由来や使用開始時期などが多い。

家康は当初厭離穢土欣求浄土の纏(まとい)のみを用いたが、やがて金扇の大馬印と併用するようになる。


戦国Check✓

馬印(うまじるし)
戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印。

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、
太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)
戦国時代、徳川家康が馬印に用いたことで知られる。
桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた元康は、松平家の墓前で自害を試みるが、
その時十三代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。
「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、
永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」との意味が込められているという。



新三河物語 宮城谷 昌光(著)
戦国人物伝 徳川家康 すぎた とおる(著)
殿様を叱る!―歴史を動かした戦国大名家臣たちの直言集 澤宮 優 (著)
難儀でござる 岩井 三四二 (著)
松平家の謎 「歴史読本」編集部
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ 嶋津 義忠 (著)



柳営秘鑑(りゅうえいひかん)によると、

扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。

元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。

天文十八年安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、

文禄二年大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。


もとは三河安祥之七御普代 本多平八郎忠高の指し物で、
後にこれを本多平八郎忠勝が受け継だという。

そして文禄二年に徳川家に献上しているとある。


戦国Check✓

柳営秘鑑(りゅうえいひかん)
江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した書物。著者は幕臣菊池弥門。
寛保三年(1743年)に成立。全十巻にまとめられている。

三河安祥之七御普代
酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、
または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す。

本多 忠高(ほんだ ただたか)
戦国時代の武将。通称は平八郎。三河松平家臣。藤原北家兼通流本多家第十代当主。

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
戦国時代から江戸時代前期の武将。通称は平八郎。官位は中務大輔。三河松平家臣。
藤原北家兼通流本多家第十一代当主。
本多平八郎家初代当主。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。
生涯で五十七回の戦に参戦したが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと云われ、
徳川四天王、十六神将、徳川三傑に数えられる猛将。
家康の功臣として「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された名将。






常山紀談(じょうざんきだん)によると、
天文十四年,公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。
御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。
御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。
其子忠勝が時に至りて、永禄二年東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。


安城合戦の時、本多吉右衛門忠豊が主君の御馬印を賜はり討死。
その馬印は、嫡子平八郎忠高が貰い受け、本多家で継承されていき、永禄二年に徳川家に献上しているとある。

これによると金扇の馬印は、松平広忠の時代から使用していたということになる。

扇の御馬印と記されているだけなので当時は金では無かったのかもしれないが・・・・・


戦国Check✓

常山紀談(じょうざんきだん)
江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文二十五巻、拾遺四巻、
それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」一巻にまとめられている。
著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山。



改正三河後風土記によると、
宇理城攻めの時、松平清康の扇の指し物を目指してせまる敵兵に、
清康の馬前にて奮戦し退けた本多忠豊の功を賞せられて、扇の指し物を賜るとある。
これより、本多家に伝わったものともいう。


牛窪記によると、
徳川家康が、今川軍の拠点の今橋城を攻略した際に、
後に譜代に列する東三河牧野家の金扇の馬印を譲り受けたとあるが、

常山紀談では、牧野家由来説を否定する説明が記されている。
真相はいまだなのである。


戦国Check✓

改正三河後風土記(みかわごふどき)
天保三年(1832年)に、徳川家斉の命により、
成島司直の手で「三河後風土記」の改編および「三河物語」などでの校正がなされ、
序文・首巻が付けられた全四十二巻からなる歴史書。
徳川氏創業史の一つで、徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。
江戸幕府の編纂物の一つ。

牛窪記(うしくぼき)
室町時代から安土桃山時代、東三河地方における土豪の様子や、伝説を記載した地域史料。編著者は不明。
牛窪城主牧野氏の栄枯盛衰を中心に記述した内容から「牛窪記」と題されている。

三河今橋城(みかわいまばしじょう)
三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内)にあった城。

三河牧野氏(まきのし)
三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏の一族。
東三河の宝飯郡を中心に渥美郡・八名郡の一部を含む地域に分布した土豪として栄え、
中でも牛久保城と吉田城に居城した牧野氏は国人領主に成長した。





次回 第二十四話 松平家の結束 ⇒




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