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歴史書の年代設定は謎だらけである

 【06//2014】

美濃国へ乱入し五千討死の事


伝記
太田牛一の著書「信長公記」に加筆・潤色を加え、
原作よりもわかりやすく小瀬甫庵が整理改編した「信長記」によれば、
「加納口の戦い」は織田信長の元服の翌年、すなわち天文十六年(1547年)と記されている。

しかし甫庵の記した信長記は、「三つに一つは真実だか、あとはデタラメであり根も葉もない嘘である」
大久保彦左衛門忠教「三河物語」に記している。

ただ当時の伝記物語は活躍した人物の行跡(ぎょうせき)を記憶で記すことにある為、多少仕方が無い事でもある。

信長公記が史料的信憑性が高い第一級の史料とされているのも、あくまで信長記と対比しての評価である。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

小瀬 甫庵(おぜ ほあん)
戦国時代から江戸時代初期の儒学者、医師。通称は又次郎、長太夫。本名は秀正。
慶長十六年(1611年)、太田牛一が著した「信長公記」を元に「信長記」(甫庵信長記)
寛永十年代には「太閤記」(甫庵太閤記)をそれぞれ刊行。

信長記(しんちょうき または のぶながき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は小瀬甫庵。
太田牛一の著書「信長公記」に加筆・潤色を加え、原作よりもわかりやすく整理改編したもの。

大久保 忠教(おおくぼ ただたか)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は彦左衛門。三河松平家臣。江戸幕府旗本。
自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、
様々な人々から義侠の士と慕われていた。
「三河物語」の著者でも有名。

三河物語(みかわものがたり)
武士の生き方を子孫に残した家訓書。著者は大久保忠教。
徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交え、数々の戦の記録と忠教の経験談や考え方などが全三巻にまとめられている。



侵攻
信長公記
さて、備後殿は国中を憑(たの)み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。

或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々(ざいざいしょしょ)放火侯て、

九月廿二日、斎藤山城道三が居城稲葉山の城下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ



天文十六年(1547年)九月三日
織田弾正忠信秀は、尾張国中に援軍を要請し、総勢約一万の大軍団で美濃守護土岐左京大夫頼芸
美濃復帰を大義名分に掲げ、斎藤新九郎利政(山城守道三)討伐の兵を挙げ美濃国に侵攻する。

この頃の信秀は、尾張国内から徴兵した連合軍の総指揮をとれるまでに成長していた。

尾張国における第一人者であったことは言うまでも無い。


戦国Check✓

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

おのれ筑前、我敗れたり 南条 範夫 (著)
安吾 戦国痛快短編集 (PHP文庫) 坂口 安吾 (著)
現代語訳 信長公記 太田 牛一 (著) , 中川 太古 (翻訳)
信長公記 (教育社新書―原本現代訳) 太田 牛一(著者),榊山 潤 (翻訳)
信長公記 太田 牛一 (著者)、桑田 忠親(翻訳)



大敗
天文十六年(1547年)九月二十二日
織田信秀は、斎藤利政の居城がある稲葉山の麓(ふもと)の村々へ軍を進め、付近の村を焼き払い、城下まで攻め寄せた。


既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り侯所へ、山城道三焜と南へ向かつて切りかゝり、

相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿(信秀)御舎弟織田与次郎・織田因幡守

織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、

歴々五千ばかり討死なり。



しかし日没であった為、信秀は一旦軍勢をまとめ引き上げようとした時、
稲葉山城で篭城策(ろうじょうさく)を取っていた利政が、「好機到来」とばかりに猛然と襲いかかり、
撤収中に不意を襲われた尾張勢は大混乱となり悉く(ことごとく)美濃勢に討ち取られた。

美濃勢に討ち取られた諸将の中には、
信秀の弟である尾張犬山城主織田与次郎信康や、清洲三奉行家の一つである織田因幡守達広
その他にも織田主水正、熱田大宮司の千秋紀伊守季光毛利十郎敦元
吉法師の守役である青山与三右衛門、弾正忠家重臣 寺沢又八の舎弟である毛利藤九郎
岩越喜三郎らの名が記されており、総勢五千の兵が討ち取られた。


戦国Check✓

織田 信康(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は与次郎。法名は伯厳又は白厳。尾張犬山城主。
織田信秀の弟であり、織田信長の叔父にあたる。
兄信秀に従い政戦両面で活躍した武将。
しかし信康死後は、子の信清が信秀・信長に対して反抗的であったため、
犬山織田家は「織田弾正忠家」の敵対勢力の一つとなった。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。



史料
美濃国へ侵攻した織田弾正忠信秀は、その地位を揺るがすほどの大敗を喫する。

「加納口の戦い」「小豆坂の合戦」同様に年次は記されておらず、
月日のみが記されていることから定説と言えるものが存在せず、
天文十三年(1544年)説天文十六年(1547年)説の二通りの考えがある。


東国紀行
「今度、濃州に於いて不慮の合戦、勝利をうしなひて弾正一人やうやう無事に帰宅」
天文十三年(1544年)十月
東国旅行に向かう連歌師 宗牧が、尾張那古野城に赴き、美濃で大敗した直後の織田弾正忠信秀に対面し、
禁裏修理の費用を進上した感状として後奈良天皇から委託された女房奉書を届けている。


長井久兵衛書状
仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、
此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、
木曽川へ二三千溺候、・・・・・・・
九月廿五日
長井久兵衛
 秀元
水野十郎左衛門殿

これは天文十三年(1544年)九月二十五日付の
長井久兵衛秀元から水野十郎左衛門宛ての書状の一部抜粋である。
水野十郎左衛門とは水野信元の事を指し、長井久兵衛秀元は斎藤利政(斎藤道三)を指す。
斎藤利政が水野信元に合戦の戦果を報告し、織田信秀の排斥を勧める内容の書状である。


定光寺文書
甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也
天文十三年(1544年)九月二十二日未刻、美濃に侵攻した織田信秀が敗退した事が記されている。


上記の内容から考えると加納口の戦い天文十三年(1544年)説が最も有力に感じられる。
しかし加納口の戦いが天文十三年にあったとすると、史実に矛盾が生じてしまう。


戦国Check✓

小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。
三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で二度にわたって繰り広げられた戦い。

後奈良天皇(ごならてんのう)
諱は知仁(ともひと)。称号は天皇。第百五代天皇。
皇室が最も衰微した時期に即位し、即位式は大内、今川、後北条氏らの諸大名からの献金を得て執り行なわれた。
戦乱や災害で飢饉、疫病に苦しむ庶民のため、悪疫流行の終息を祈り、般若心経を書写して諸国一宮に奉納した。
また、天皇権威の振興を図り、安土桃山時代の「王朝回復」の先駆けをなしたと言われている。

女房奉書(にょうぼう ほうしょ)
天皇や院の意向を女房(女官)が仮名書きの書にして当該者に対し発給する奉書

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。



矛盾
吉法師殿御元服の事

吉法師殿十三の御歳、林佐渡守、平手中務、青山与三右衛門、内藤勝介御伴申し、古渡の御城にて御元服、

欝三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜斜めならず


天文十五年(1546年)
十三歳になった吉法師は林佐渡守秀貞平手中務丞政秀青山与三右衛門信昌内藤勝介の介添えにより元服し、三郎信長と名乗る。

もし加納口の戦いが天文十三年にあったとすると、
信長の元服以前に「青山与三右衛門は死去」していたことになる。

歴史書は不整合な部分が多く存在する為、同時代の複数の史料をつき合わせる事が重要である。
結局のところ、史料をどのように読むかによって解釈が分かれるのである。







次回 第二十八話 尾張国内 一族との対立 ⇒




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