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織田信長は注意欠陥多動性障害

 【12//2015】

庶子と嫡子の戦国時代


織田三郎信長には、織田三郎五郎信広という兄がいたが、
妾腹(しょうふく)であったため、嫡男として扱われなかった。


戦国Check✓

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。



妾腹(しょうふく、めかけばら)
結婚している男性が妻以外の女性(妾 めかけ)に産ませた子供。
大坂や京都を初めとする畿内では、妾を「てかけ」と称する。

本妻(正室)は、「家族の一員」であるのに対し、(側室)の位置づけは「使用人」であるとされている。

妻が複数人存在する「一夫多妻制」とは、厳密には異なる。

女性一人が、生涯に出産できる子供の数は限られており、
男系男子の子孫を絶やさないことが重視されていた戦国の世において、
側室を置く事は必定と考えられていた。






嫡子(ちゃくし)
男系相続にこだわる武家社会では、側室(妾)の産んだ子は、正室(本妻)の産んだ子より低く見られる傾向があり、側室が産んだ男子は、長子であろうと「庶子」として扱われ、

正室の産んだ男子は次子であったとしても「嫡子」として扱われていた。

しかし、正室の産んだ子が女子、側室が産んだ子が男子であった場合、
「跡継ぎ」としては側室の産んだ男子のほうが尊重される事になる。



泰平の世を迎えた江戸時代以降では「庶子」「嫡子」の関係は少し変わる。
戦国時代では、側室が産んだ男子は、正室が産んだ男子がいる限り「嫡子」にはなれなかったが、
江戸時代以降は正室の子も側室の子も関係なく早く産まれた男子「世継ぎ」となるケースが多かった。

幕藩体制下では、家督相続は勝手に行えるものではなく「嫡子願」という届出書を幕府に提出し、
受理されて初めて嫡子として認められたためである。

嫡子願の届出をしないまま、その家の当主が死亡すると、
男子がいたとしても幕府側は「世継ぎがいない」と判断し「御家断絶」ということになった。

そのため、たとえ側室の子であったとしても「長子」「嫡子」という流れへと代わっていったのである。
ちなみに「嫡子願」で嫡子となった側室の子は、正室の養子とされ「正室の子」として育てられた。





自立
群雄がひしめく戦乱の世で尾張統一を目指す織田弾正忠信秀は、その生涯の大半を戦に費やしてきた。

そのため幼い吉法師にも「戦乱を生き抜く強さ」「嫡男としての心構え」を身につけさせようと
四人の重臣たちを傳役(もりやく)に付け、尾張那古野城の城主に据えるという
過酷ともいえる英才教育をほどこした。

自立するために必要なものは「親離れ」ではなく「子離れ」だという言葉があります。
子供の自立を願うのであれば、親は子離れする必要があり、
子離れしないといつまでも子供は自分で立つことが出来ないのである。

子供は、将来必ず大人になる

幼い吉法師を群雄がひしめく戦乱の世において「家を守る」ことができるようなひとかどの武将にするためには、
あえて「外の世界でもまれて免疫力をつける」必要があった。

可愛いからとはいえ、親元で育てていては、強く育たない。

どうすればいいのか、どういう大人になればいいのか、
すべて初めての経験ばかりのため自らトラブルの中へ飛び込んでいくかもしれない。
それでも信秀は可愛い我が子のために辛い選択をするのである。

日本のことわざに「かわいい子には、旅をさせよ」という言葉がある。
可愛い子だからこそ、あえてつらい経験をさせてあげるという意味だ。

大事な子とはいえ、いつまでも温室の中で生活していては、社会で生きるための力をつけることは出来ない。
可愛い子、大事な子だからこそ、思い切って旅をさせて、強くなってもらうことが大切なのである。

端午の節句⇒



戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。



発達障害
吉法師は幼少時から寺に入れられ修行をさせられたが、
おとなしく坊主の教義に耳を傾けるような子供ではなかった。

吉法師は衝動が抑えられず、突発的に行動してしまい、
同じ寺で修行する子供の食べているものを奪い取って食べてしまうことも日常茶飯事であった。

また我慢ができず、思い通りにならない場合などは誰彼構わず手を出してしまうこともあり、
感情のコントロールが出来ないこともあった。

吉法師の日常の行動が人並みではないことや、その素行の悪さにもてあまし気味であった僧や周囲の者達は、

「あの様子ではとうてい大した人物にはなれまい。

弾正忠の子にしてはあまり似つかわしくないのではないか」
と将来をあやぶみ嘆息していた。




織田信長は、ADHDだったのではないかと言われている。
ADHDは日本語で注意欠陥多動性障害と訳される発達障害の一つであり、
不注意や他動性、衝動性など周囲に誤解されやすい症状がある。

織田信長の他にもADHDだったのではないかという歴史的偉人には、
エジソンアインシュタイン坂本龍馬など高い能力や才能を持つ人物の名が挙げられている。





両親のもとで成長することを許されなかった吉法師は、父や母の温かい愛情を受けることなく成長していく。
しかしそれは両親の束縛も受けることなく成長していくことになる。

吉法師は自ら進んで興味を示し自ら進んで行動することで自己の個性を確立させていった。
世間の常識を鵜呑みにせず「自己の考え」を大切にしながら、人間として武将として成長していく。

独特な感性ひらめきがあり、行動力に長けていたことから
織田信長はADHDだったのではないかという話がでたようである。

また、アスペルガー障害アダルトチルドレンではないかという学説もあるらしいが、
それもまた違うと思う。



戦国Check✓

注意欠陥多動性障害(ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい)
(Attention Deficit / Hyperactivity Disorder、ADHD)
多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害。
感情的な衝動性(安定性がないことや短絡的に結論に飛躍し順序建てた考えでなく感情が優先しすぎる)や
注意力(日常の行動が人並みでないなど)や集中力の欠如が多いとされる。

アスペルガー症候群
社会性・興味・コミュニケーションについて特異性が認められる広汎性発達障害。
総合的なIQが知的障害域でないことが多く「知的障害がない自閉症」として扱われることも多い。
特定の分野への強いこだわりを示したり、運動機能の軽度な障害も見られたりする。

アダルトチルドレン
「親からの虐待」「アルコール依存症の親がいる家庭」など家庭問題を持つ機能不全家庭で育ったことにより、
成人してもなお心理的外傷として内心的なトラウマを持つ人を指す。
破滅的であり、完璧主義であり、対人関係が苦手であるといった、いくつかの特徴がある。
成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な悪影響を及ぼしている。



愛情
戦国の世の嫡男の宿命とはいえ、
吉法師には心から甘えられる存在がなかった。

子供にとって母親は依存の対象であり、それを拒否されたことで強い欲求不満となり、
飢えた獣のように粗暴さを剥き出しにし、奇怪とも取れる行動に出たのは、
母に愛されたいと思うがゆえの精いっぱいの反逆行為であった。

幼い頃に母と別れ、他人に囲まれて育つというスキンシップのない状態に本能的に反発していたに過ぎず、
単に母の愛情を求めていただけなのである。





次回 第四話 自由な発想をたのしむ尾張のうつけ者




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