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成人式の髪型でお悩みのアナタへ

 【09//2014】

仮名という名乗り



元服(げんぶく、げんぷく)
平安時代以降、公家武家の間で行われた男子の成人式という通過儀礼であり、
加冠(かかん)ともいわれている。

十二~十六歳の男子が、成人したことを表すために行われ、
氏神の社前で大人の服に改め、総角(あげまき)と呼ばれる子供の髪型を、
大人の髪である冠下髻(かんむりしたのもとどり)に結いなおし、それまでの幼名を廃し、
烏帽子親(えぼしおや)の名前から「一字」をもらいうけ、帽子名(えぼしな)=元服名を新たに付けるのである。


戦国Check✓

総角(あげまき)
日本の上古における貴族男性の髪型。古墳時代の男性埴輪などに見られる。
中国の影響で成人が冠をかぶるようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。
美豆良(みずら)、角髪(みずら)とも。
分類として、「上げ角髪」と「下げ角髪(ようは、おさげ)」があり、一般人に認知度が高いのは前者であり、
後者は貴人(身分の高い者)の髪型である

冠下髻(かんむりしたのもとどり)
平安時代から現代の宮廷行事まで続く男性貴族の髪型。別名:一髻(ひとつもとどり)。
肩を越すぐらいまで伸ばした髪を一つにまとめ、元結で根元を二度巻いた後に千鳥掛け(正面で紐を交差する結び方。
正面から見ると菱形に見える)に結い上げて行くというもの。
高位の人間は紫の、身分の低い人間は白の元結を使い、通常は奇数回(およそ十三回)巻上げ、凶事には偶数回
(およそ十二回)巻き上げるという。

烏帽子親(えぼしおや)
元服儀式の際に加冠を行う者のこと。
中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親になって貰い、
当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。
この仮親を烏帽子親と呼ぶ。



信長公記によれば、

吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介御伴申し、

古渡の御城にて御元服、欝三郎信長と進められ・御酒宴御祝儀斜斜めならず



天文十五年(1546年)
吉法師は十三歳の年に、
林佐渡守秀貞平手中務丞政秀青山与三右衛門信昌内藤与三右衛門勝介の四人の家老に
介添えされて、尾張古渡城で元服の儀式を執り行い、織田三郎信長と名乗りを改める。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として補佐役に抜擢されているが
不明な点が多く謎の人物。

家老(かろう)
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

尾張古渡城(おわりふるわたりじょう)
尾張国愛知郡古渡(現在の愛知県名古屋市中区)にあった城。



この「三郎」とは、清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家の嫡男が名乗る仮名(通称)であり、
父 信秀も、祖父 信定も仮名は「三郎」であった。


戦国Check✓

清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)
清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ、尾張下四郡を支配下に治めていた尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える
奉行三家のこと。
因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家がある。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。



仮名(けみょう)
本名である(いみな)を呼称することを避ける為に便宜的に用いた通称のことである。

古来中国や日本などでは、人間の実名にあたるを呼称する事を避ける避諱(ひき)の風習があった。

諱で呼びかけることは、親や主君などにのみ許され、
それ以外の人間が実名で呼びかけることは、「極めて無礼」であると考えられていた。

そのため、天皇・皇族・公卿は、尊称又は官職をもって呼称し、
将軍家・大名・武士においては、官位又は仮名をもって呼称していた。

諱を呼ぶ事で、その人格を支配したり、呪いをかけたり出来るという言霊(ことだま)信仰が存在したためである。

ゆえに仮名が本名である諱の代わりに日常的に使われるようになったという。


戦国Check✓

言霊(ことだま)
日本において言葉に宿るとされた霊的な力のこと。言魂とも書く。
清音の言霊(ことたま)は、五十音のコトタマの法則を指し、その法則によって森羅万象が成り立つとされ、
言霊を研究する学問を言霊学という。

日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本 新人物往来社
ぼくのイニシエーション体験―男の子の魂が育つ時 マリドマ・パトリス ソメ (著)
ものづくりとくらしの日本史 新人物往来社 (編集)
わが子に教えたい日本の心 石 平(著)

 

名前

明治三年十二月二十二日
太政官布告
「在官之輩名称之儀是迄苗字官相署シ来候処自今官苗字実名相署シ可申事」


明治四年十月十二日
太政官布告
「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」


明治五年五月七日 
太政官布告
「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」


実名であると、通称である仮名を併称する事が公式に廃止され、
今日では人名として諱・仮名の区別なく命名されている。




次回 第三十一話 織田弾正忠家を継承する者 ⇒




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