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後継者候補として活躍してみませんか?

 【11//2014】

織田弾正忠家を継承する者



継承
松平家において、「次郎三郎」または、「二郎三郎」という仮名(通称)と、
「竹千代」という幼名は代々嫡男の名乗りであることは有名である。

織田弾正忠家にも、嫡男が名乗る仮名として「三郎」という名がある。

信長の父織田信秀も、祖父織田信定も仮名は「三郎」であった。

しかし、「織田弾正忠家を継承する者は、三郎信長である」とする確約は、
この時まだ無かったのでは無いかと思われる。



戦国Check✓

松平氏(まつだいらし)
室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、
後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。
室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。
江戸時代は徳川将軍家の一門、或いは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、
また将軍家が勢力、格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。



「織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり」

三郎信長には兄織田三郎五郎信広という人物がいたが、
妾腹(生母が側室)であったため、
織田弾正忠家の嫡男として扱われなかった(相続権はなかった)のが通説である。

しかし、妾腹の子であったにしろ信秀にとっては第一子である。

家督継承権があった可能性があると考えてもおかしくないのではないか。



戦国Check✓

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

妾腹(しょうふく、めかけばら)
結婚している男性が、妻以外の女性=妾(めかけ)に産ませた子供。

(いみな)
本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞。
古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。

第六天魔王 織田信長
使ってみたい武士の作法 杉山頴男 (著)
ホントはどうなの?戦国武将への大質問 歴史の謎研究会



世襲
越前国の戦国大名朝倉氏の一族である朝倉太郎左衛門尉教景(朝倉宗滴)は、
第九代当主朝倉貞景、第十代当主朝倉孝景、第十一代当主朝倉義景の三代に仕え、
重鎮(じゅうちん)として各地を転戦し武名を轟かせた名将である。

宗滴は第七代当主朝倉孝景の八男として生れたが、
代々の朝倉家当主が世襲していた「小太郎」という仮名を世襲している。

また朝倉家歴代当主が名乗る「景」の字が諱に使われていることや、
諱そのものもが曽祖父である第五代当主朝倉教景が名乗っていたことから、
宗滴は嫡男として遇されていたものと思われる。

しかし文明十三年(1481年)、孝景が死亡すると朝倉家の家督を継承したのは「小太郎教景」ではなく、
長男であった「孫次郎氏景」であった。

以後三代に渡り「孫次郎」という仮名を朝倉家当主は世襲していく。

当時四歳に過ぎない宗滴に朝倉家を継がせることは無理があるとの判断から、
兄氏景が継いだものと思われるがその真意は解らない。

戦国の世での後継者とは、
正室の子=嫡男   仮名・諱を受け継いだもの=嫡男 という簡単なものでは無く、
家や家臣を守れる者 或いはその時の状況により継承者は変わるのである。

その時の政治的要因が最も反映されていたのである。
それは織田弾正忠家でも当然の事であり、それが戦国の世で生きる者の宿命であった。



戦国Check✓

越前国(えちぜんのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。別称は越州(えつしゅう)。
領域はおおむね現在の福井県嶺北地方及び敦賀市にあたる。
敦賀郡、丹生郡、今立郡、足羽郡、大野郡、坂井郡、吉田郡、南条郡の八郡から成る。

朝倉氏(あさくらし)
家系は開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする説と、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫であるとする説の二つに分類される。
はじめ日下部氏を名乗るが、平安末期に但馬国養父郡朝倉に移住したことから朝倉氏を名乗るようになる。
その後、越前に移住し、南北朝時代に越前国守護斯波氏に仕えた朝倉広景を祖としている。
越前朝倉氏は、甲斐氏、織田氏と共に斯波三守護代の第二席となり、のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになる。
後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになった。

朝倉 教景(あさくら のりかげ)
戦国時代の武将。通称は太郎左衛門尉。諡号は宗滴。越前朝倉家一門。
朝倉貞景、朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代に仕え、一族の重鎮として各地を転戦し、武名を轟かせた名将。

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
室町時代中期の武将。通称は小太郎。官位は弾正左衛門尉。越前守護。越前朝倉家第七代当主。
同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」と表記する事がある。
また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。
応仁の乱を機に守護斯波氏にかわって越前を支配。
一乗谷を本拠に戦国大名としての基盤を築く。
家訓として「朝倉敏景十七箇条」を遺している。



後継者
戦国時代において戦国武将の究極の使命
「如何にして家名を後々まで存続させるか」ということに集約される。

先祖代々受け継がれてきた家名領土が未来永劫存続する為に彼らは戦い続けてきた。

織田弾正忠信秀もまた、先祖代々守られてきた「織田弾正忠」の家名を胸に、
尾張国内での勢力拡大に努めた。

戦国武将にとって、後継者を育てる事が最も大事

この時代は後継者にすべての財産を相続させる「単独相続」と呼ばれる分割方法がとられていた。

これは鎌倉時代に「分割相続」による財産の細分化により一族の勢力が弱体化したことを教訓として生まれた
分割方法といえる。

その為、後継者の采配によっては、家名はおろか一族全てが滅亡という最悪のケースも起こり得るのである。

先祖代々織田弾正忠家当主が世襲していた「三郎」という仮名や、
「信」というには確かに特別な意味が込められてはいるが、それ以上に大切な事は、
家名を絶やすことなく存続させる事が出来る戦国武将としての資質を持つ後継者を育てることである。



次回 第三十二話 初陣は三歳 ⇒




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