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衝撃的な軍装

 【14//2014】

初陣は三歳


初陣

天文十六年(1547年)
織田三郎信長は、
平手中努丞政秀を後見人として三州吉良大浜に出陣し初陣を飾る

信長初陣



戦国Check✓

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

三河大浜(みかわおおはま)
三河国碧海郡大浜(現在の愛知県碧南市羽根町)辺りの地。



吉良大浜は、織田弾正忠信秀と誼(よしみ)を通じている三河方の豪族水野下野守信元の領地であったため、
織田弾正忠家 嫡男の初陣の地としては最適の場所であった。

織田弾正忠家刈谷水野家との関係が良好であったことが窺い知れる。



戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。



軍装

その時の信長の軍装は、
紅筋(べにすじ)の頭巾羽織馬鎧(うまよろい)というものであった。

紅筋の頭巾をかぶり、新調墨絵の馬乗り羽織、乗馬には面、平頸(ひらくび)、胴に革、
金紙の馬鎧を着せた信長の軍装は、
鮮麗で美しいものであった。

所々放火をしたあと、その日は野営を張り、翌日に那古野に帰陣した。

戦場の雰囲気に慣れる為のもの、単なる儀式的なもの、として早々に引き上げている。


衝撃的な軍装⇒

戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。




初陣(ういじん)は、初めて戦闘行為に参加することをいい、初陣の年齢は個人差があるが多くの場合、
元服前後の十代前半が多く、必ず勝てる戦いに参加させる傾向があったと言われている。

しかし、中には例外もある。

江戸幕府の創設者である松平蔵人佐元康(後の徳川家康)の初陣は、危険な初陣であったとされている。

危険な初陣として、
中でも取り分け凄いのが、室町幕府二代将軍 足利義詮 (幼名 千寿王)の初陣は、なかなか強烈なものがある。


元弘三年(1333年)
新田左近衛中将義貞の挙兵に加勢した千寿王は父 足利尊氏の名代として、
倒幕軍総大将という立場で初陣したと伝えられている。


千寿王が誕生したのが、
元徳二年(1330年)六月十八日
初陣は三歳ということになる。


その後、千寿王は尊氏の後を継ぎ、
延文三年(1358年)十二月
若干二十八歳の若さで征夷大将軍となる。
若くして人心を集め、室町幕府の基礎を固めた人物である。


戦国Check✓

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

足利 義詮(あしかが よしあきら)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。幼名は千寿王。官位は左馬頭、左近衛中将、征夷大将軍、権大納言、左大臣。
室町幕府第二代征夷大将軍。足利尊氏の嫡男。
父足利尊氏の名代として、元弘の乱で新田義貞とともに鎌倉攻めに参加。
尊氏の死後、征夷大将軍に任官し、管領斯波氏を登用して政権を安定させた。

新田 義貞(にった よしさだ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の御家人、武将。正式名称は源 義貞。通称は小太郎。官位は左馬助、上野介、播磨守、越後守、左衛門佐、左兵衛督、左近衛中将。河内源氏義国流新田宗家第八代目当主。
鎌倉を攻めて幕府をほろぼし、後醍醐天皇の建武の新政で重用される。
足利尊氏が新政権にそむくと、南朝方の中心として各地を転戦するが、尊氏の京都占領後は、
越前金ケ崎城に籠もり再挙をはかるが、建武五年=延元三年閏七月二日、斯波高経との藤島の戦いで討死。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府初代征夷大将軍。幼名は又太郎。
官位は従五位上鎮守府将軍、従四位下左兵衛督、従三位武蔵守、正三位参議、征東将軍、
従二位権大納言、正二位征夷大将軍、贈従一位贈左大臣、贈太政大臣。
足利将軍家の祖。
元弘の乱で建武新政第一の功臣となるが、のち建武政権にそむき、一時九州に逃れる。
建武三年=延元元年、楠木正成を破って再び京に入り、光明天皇(北朝)を擁立。
建武式目を制定し、室町幕府をひらいた。



次回 第三十三話 居城を移す ⇒




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