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最終的に企業が経営危機や破綻にまで追い込まれるケース

 【13//2014】

続けざまの敗戦


天文十七年(1548年)三月
三河松平家の懐柔(かいじゅう)に失敗した織田弾正忠信秀は、
三河岡崎城を武力攻略する為、再度三河へ侵攻する。


戦国Check✓

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。

松平氏(まつだいらし)
室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、
後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。
室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。
江戸時代は徳川将軍家の一門、或いは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、
また将軍家が勢力、格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。

懐柔(かいじゅう)
うまく扱って、自分の思う通りに従わせること。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。




侵攻

信秀は、今川家を離反(りはん)し、織田弾正忠家に従った
三河国碧海郡に勢力を持つ国人領主水野下野守信元を従え、
庶長子の織田三郎五郎信広を先鋒に、四千余の兵を率いて三河岡崎城へ進軍を開始した。

信秀の侵攻に対し、独力での防御は無理とみた松平次郎三郎広忠は、
今川冶部大輔義元に救援を求めた。


戦国Check✓

今川氏(いまがわし)
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、吉良家の分家にあたる。
吉良氏は足利将軍家の連枝としての家格を有し、その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には、
足利宗家の家督を継承することが許された一門。
吉良家を興した吉良長氏の二男である国氏が、吉良氏の所領から三河幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、
現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる。

離反(りはん)
従っていたものなどが、そむきはなれること。

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。



昨年の天文十六年(1547年)十月
信秀の画策により、広忠の嫡男松平竹千代(徳川家康)を横取りされた義元は、
太原崇孚雪斎を総大将、朝比奈備中守泰能を副将として
約一万の兵を三河岡崎救援の援軍として送っている。

義元からしてみれば、松平家の当主広忠が死ねば、竹千代を人質としている織田弾正忠家に、
三河松平家の臣が従属する恐れがあったためである。


戦国Check✓

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、
太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は左京亮、備中守。駿河今川家臣。遠江掛川城主。
駿河今川家重臣筆頭とされ、父朝比奈泰熙の死後、伯父泰以の補佐を受け、
若くして今川氏西方の要衝遠江掛川城主となる。
小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣し、尾張織田氏に大勝するなどの活躍を見せるが、
桶狭間の合戦前に没したと思われる。


英雄にっぽん (角川文庫) 池波 正太郎 (著)
桶狭間戦記
火天の城
黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望
こんな城もあったんだ~日本名城・奇城ガイド~
諸家評定―戦国武士の「武士道」
城あるきのススメ



三河物語によれば、

「然処に、山道の事なれば、互に見不れ出して押けるが、小豆坂え駿河衆あがりければ、織田之三郎五郎殿は先手にて、

小豆坂えあがらんとする処にて、鼻合をして互に洞天しけり。

然とは申せ共、互に旗を立て、即合戦社初て、且は戦けるが、三郎五郎殿打負サせ給ひて、盗人来には、

弾正之忠之旗の立ければ、其よりも、もり返して、又小豆坂之下迄打、又、其より追返されて打れけり。

其時之合戦は、対々とは申せ共、弾正之忠之方は二度返され申、人も多打れたれば、駿河衆之勝と云。

其より、駿河衆は、藤河え引入、弾正之忠は、上和田え引て入。

其より案祥え引て、案祥には舎弟之織田之三郎五郎殿を給ひて、弾正之忠は清須え引入給ふ。

三河にて小豆坂之合戦と申したヱしは此事にて有」



天文十七年(1548年)三月十九日
織田軍先鋒 織田信広隊と、朝比奈隊が三河小豆坂(あずきざか)で接触し合戦となる。
この合戦で織田勢は、朝比奈備中守泰能の奮戦によって総崩れとなり、
三河安祥城まで敗走することになる。


戦国Check✓

三河物語(みかわものがたり)
大久保忠教によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書。
徳川の世になるまでの数々の戦の記録と、泰平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが
全三巻にまとめられている。

小豆坂(あずきざか)
三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市美合町)辺りの地。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。



風評
加納口の合戦小豆坂の合戦と続けざまに大敗したことにより、

尾張国内では、
「まもなく尾張も今川家のものとなろう」などの風評(ふうひょう)が流れはじめた。

世間の噂や世評により、倒産の危機を迎える企業があるのと同じで、

戦国の世においても、
風評被害で家名が断絶するケースは非常に多い。

悪評が流れると、身の危険を感じた取引先が我先にと、契約を打ち切っていくためである。

織田弾正忠家との契約を破棄し、新たに今川家との契約を模索し始める、中小企業の当主などが現れだし、
1社、また1社と織田弾正忠家から離反することになる。
桶狭間の合戦後、戦国一と謳われた今川家の衰退がいい例である。

小豆坂の合戦で大敗を喫した信秀は、
織田弾正忠家に対する悪評が及ぼす尾張国内での同族との対立に備え、
敵対関係にある美濃斎藤家との同盟を画策しはじめることになる。


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加納口の合戦(かのうぐちのかっせん)
天文十六年(1547年)九月二十二日に織田信秀(および朝倉孝景・土岐頼芸)と斎藤道三との間で起こった合戦である。
井ノ口の戦いとも言う。

小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。
三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で二度にわたって繰り広げられた戦い。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。

斎藤氏(さいとうし)
美濃の斎藤氏は、美濃目代として越前から移り住み、室町時代に美濃守護土岐氏に仕え、
その守護代となり勢力を揮った。
戦国時代に至り、その名跡を斎藤道三が継承し、守護土岐頼芸を追放して美濃国主となる。



天文十七年(1548年)十一月
美濃斎藤家織田弾正忠家との縁組による和睦が成立し、
織田弾正忠信秀の嫡男三郎信長と、斎藤山城守利政の息女帰蝶との婚姻が決定するのである。


戦国Check✓

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。



次回 第三十五話 白羽の矢が立つ ⇒




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