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あの謎の女性の身元が確定?

 【16//2015】

戦国史上最も謎の多い女性


濃姫の資料は極めて少なく謎の多い女性とされていた。
信長の生涯を記した信長公記には、濃姫の記述は「輿入れ」の事実のみだという。

一体なぜ濃姫は、織田家の記録から消されたのか?



美濃国諸旧記(みのうのくにしょきゅうき)によると、
濃姫は鷲山城で生まれ育った事から、鷲山殿と呼ばれていたとある。

濃姫というのは通称であり、「美濃国から来た高貴な女性」という意味で、
尾張国へ来てからのものとされるが、後世に作られたという説もある。


冒頭でも述べたように濃姫の資料は極めて少なく、その実像には謎が多い。

「信長との間に子供は出来なかった」というのが通説だが、
信長との間にがいる家系図が存在しているらしく、御台出産記事のある文献もあるのである。


戦国Check✓

濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)
江戸寛永年間頃に戦国時代から安土桃山時代頃の美濃国の歴史を記した書物とされている。
著者不明。成立年代不明などの事から歴史的史料価値には諸説ある。

美濃鷺山城(みのさぎやまじょう)
美濃国方県郡鷺山(現在の岐阜県岐阜市鷺山)にあった城。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、
武藝郡、郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

御台(みだい)
貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。御台所。
「御台」は身分の高い人の食事を載せる台の事。



女たちの戦国時代 米田 一雄 (著)
ギャルバサラ 戦国時代は圏外です (KCG文庫) 飯山満 (著)
ギャルバサラ -戦国時代は圏外です DVD
戦国激女100人伝 乱世を駆け抜けたすごい美女がいた 鶴岡伸寿 (著)



近江輿地志略(おうみよちしりゃく)には、
永禄十一年(1568年)
成菩提院にて、「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。」という記述がある。

近江国の成菩提院という寺で、濃姫は出産をしたということが記されている。


勢州軍記(せいしゅうぐんき)には、
信長の御台所である斉藤道三の娘に若君が生まれなかったため、
側室が生んだ織田勘九郎信忠を養子とし、嫡男としたとの記述がある。


信忠を嫡子とする為、正室である濃姫の養子としたと記されているが、
信長はなぜ織田弾正忠家の嫡男が名乗る「三郎」の仮名(けみょう)を与えず、「勘九郎」としたのか。

信長は正室である濃姫が男子を産んでくれることを期待し、
「三郎」の仮名は、濃姫との間に出来る嫡男の為に取っておきたかったのではないか

或いは、近江輿地志略で濃姫が出産したのは姫ではなく男子(嫡子)であり、
その子が継承すべき仮名であったためか真意の程は解らない。


戦国Check✓

近江輿地志略(おうみよちしりゃく)
江戸享保年間頃に戦国時代から江戸時代頃の近江国の歴史を記した書物。
著者は膳所藩士 寒川辰清。
寛政十年(1798年)に幕府に献上され、全百一巻から成る江戸時代の地誌としては最も優れたものの一つとされている。

成菩提院 円乗寺(じょうぼだいいん えんじょうじ)
近江国坂田郡柏原(現在の滋賀県坂田郡山東町柏原)にある天台宗比叡山延暦寺の末寺。山号は寂照山。
弘仁六年(815年)、天台宗の開祖 最澄が柏原小野に留まった際、創建したのが始まりとされている。

勢州軍記(せいしゅうぐんき)
江戸寛永年間頃に戦国時代から江戸時代頃の伊勢国の歴史を記した軍記物。
著者は神戸良政。
寛永十五年(1638年)に「勢州軍記」の抄録「勢州兵乱記」を徳川頼宣に献上。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

織田 信忠(おだ のぶただ)
安土桃山時代の武将。通称は勘九郎。官位は出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将。
織田弾正忠家第五代当主。織田信長の嫡男。
父信長に従い長島の一向一揆、長篠の戦などに転戦し、信長が安土に移った後は、
織田弾正忠家を継承し岐阜城主となる。
甲斐の武田勝頼を滅ぼし、中国攻めのため上洛するが、京都妙覚寺滞在中に明智光秀の謀反を知り、
二条城で光秀方に包囲され自刃。




また濃姫は、「斎藤道三の死後、離縁されて美濃に帰された」
或いは「斎藤道三の死後、若くして病死」というのが通説だが、

永禄十二年(1569年)
信長が美濃を制圧した頃に山科言継が記した言継卿記には、斎藤家親族「信長本妻」との記述がある。

この記述から推測すると、
濃姫は、この時期はまだ信長の「正室」という立場にあり、生きている事になる。


また織田信雄分限帳(おだのぶおぶげんちょう)に、
「安土殿」という女性が、六百貫文の知行を与えられていると記載されており、
安土城の「安土」という土地を冠されていることから、織田家における地位の高さがうかがえ、
信長の正室にあたるのではないかとも考えられている。


妙心寺史(みょうしんじし)によると、
天正十一年(1583年)六月二日
信長公夫人主催で一周忌を執り行った記事があり、豊臣秀吉主催の一周忌法会とは別である為、
興雲院(お鍋の方)とは別人と推測され、信長公夫人とは「安土殿」である可能性が高いと考えられている。

「安土殿」が濃姫であった場合
濃姫は慶長十七年(1612年)七月九日に死去している。
享年七十八歳。
養華院殿要津妙玄大姉という法名で京都の大徳寺総見院に埋葬されている。


戦国Check✓

山科 言継(やましな ときつぐ)
戦国時代の公家、廷臣。官位は内蔵頭、正二位権大納言。
「歴名土代」の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
また衰微した宮廷に約六十年間に渉り仕え、朝廷経済のたてなおしに務めた。
大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記「言継卿記」は、
戦国時代研究の好史料とされている。

言継卿記(ときつぐきょうき)
戦国期の公家 山科言継が、大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記。
言継は、有職故実や笙(しょう)、製薬のみならず、和歌、蹴鞠から漢方医学や酒宴、
双六などの多彩な才能の持ち主であり、多くの戦国大名とも交友があった事が記されている。

近江安土城(おうみあづちじょう)
近江国蒲生郡安土(現在の滋賀県近江八幡市安土町)にあった城。

妙心寺史(みょうしんじし)
草創から維新期まで六百年の妙心寺の沿革を、本山、塔頭はもちろん地方寺院に至るまでその記録、
文書を猟渉して記した書物。
著者は川上孤山師。






次回 第三十八話 謀反・謀叛 ⇒




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