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私は「あなた」に従順な人間です。

 【05//2014】

謀反・謀叛(むほん)
君主・主君にそむくことであり、武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、
少人数で君主・主君を暗殺する行為も謀反とする。


「謀反」とは、国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企てる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く、
斬刑(ざんけい)などに処せられる八虐(はちぎゃく)の筆頭であった。

一方「謀叛」は、いわゆる天皇に危害を加えるなどの大逆行為を含まない 国家(政権)の転覆及び敵国への内通、亡命
などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。


戦国時代では、数多くの謀反が起こり、家臣が主君を追放し自らが大名となる「下克上」が行われる様になる。
戦国時代の動乱を最終的に収めた江戸幕府は、このような風潮を改め、家臣の主君への従順を教えるため、
朱子学(しゅしがく)の道徳を武士に学ばせる様になる。


戦国Check✓

八虐(はちぎゃく)
律令法において、もっとも重いとされた八つの犯罪。
基本的に死刑となり、貴族といえども減刑は許されず、恩赦の対象にもならなかった。
国家・天皇に対する犯罪のみならず、神社や尊属に対する犯罪も八虐に数えられており、身分による社会秩序を重視している。

下克上(げこくじょう)
下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為。

朱子学(しゅしがく)
南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。
陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。

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謀反人たちの真相



天文十八年(1549年)三月六日
三河岡崎城にて松平次郎三郎広忠が、父二郎三郎清康に続いて謎の死を遂げた。

第二次小豆坂の合戦からちょうど1年後のことである。
広忠を殺害したのは家臣の岩松八弥という者である。

八弥は、織田弾正忠信秀の密命で、三河西広瀬城主佐久間九郎左衛門重行が遣わした刺客で、広忠に取り入り、暗殺の機会を窺っていた。


戦国Check✓

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。
三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で二度にわたって繰り広げられた戦い。

岩松 八弥(いわまつ はちや)
戦国時代の武将。三河松平家臣。
岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)を刺殺したとの伝承がある人物。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

三河西広瀬城(みかわにしひろせじょう)
三河国加茂郡西広瀬(現在の愛知県豊田市西広瀬町西前)にあった城。別名は三河西前城。

佐久間 重行(さくま しげゆき)
戦国時代の武将。通称は九郎左衛門、全孝。三河西広瀬城主。
近隣諸豪族と共に松平宗家と対立するが、松平清康の台頭により、その勢力は自然に弱まり尾張国へ亡命することになる。
清康の死後、織田信秀の協力により、三河西広瀬城奪還に成功し、以後、織田弾正忠家に従臣することになる。
松平広忠暗殺の黒幕とされるが、その詳細は謎である。



東照宮御実紀によると、
「十四年彌生のころ御家人岩松八彌何のゆへもなく、御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり。
(隣國より賴まれて刺客となりしといふ。)

御かたはらの者共おどろきあはてゝ追かくる。

卿も御はかせとらせ給ひ、のがさじと追出給ひしかど、御股の疵痛ませ給へば追付給はず。」


岩松八弥が隣国の刺客として、広忠を襲撃して一刀突いて逃走したと記されている。


岡崎領主古記には、
「佐久間」なる人物が広忠を討つべく家臣を岡崎へ奉公に出した。
広忠はこれを「片目弥八」と呼んでいた。
広忠が縁側に出て、炎(灸)を近侍のものにみせていたところ、弥八が「後ヨリ討奉テ」逃走したとある。


三河八代記古伝集には、
「広忠公御早世ノ事」
広忠は病死したとしつつも、一説で「広瀬ノ領主佐久間九郎左衛門」より、「兼テ申含メ」られていた八弥は、
「御書寝被成ケル所ヲ不意ニ討奉リ逃走」したと記してある。

清康と広忠は、共に家臣によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正(むらまさ)の作刀であった。
村正とは、伊勢国桑名(いせのくにくわな)で活躍した刀匠の名であり、別称 千子村正(せんごむらまさ)とも言う。


広忠の遺骸は、能見ヶ原の月光庵に密葬され、のちに松平宗家第四代当主 松平次郎三郎親忠が創建した松平氏菩提寺である大樹寺(だいじゅじ)に移されている。
享年 二十四歳であった。
法名は「大樹寺殿贈亜祖応政道幹大居士」。


戦国Check✓

徳川実紀(とくがわじっき)
十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。

岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)
正保二年(1645年)から寛政十年(1798年)の間に編纂された岡崎城領主に関する年代記。
また、井上信好書写朱字加筆および加茂久算貼紙貼付のされている箇所が多数あり、朱書きや貼り紙の部分の加筆も含めれば、江戸末期の成立といえる。

三河八代記古伝集(みかわはちだいきこでんしゅう)
刈谷市立刈谷図書館村上文庫蔵。写本。五冊。
外題・内題、「三河八代記古伝集」。目録題、「三河八代記」。
徳川家康の父祖、松平親氏から松平広忠に至る松平八代の伝記。

伊勢国(いせのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は勢州(せいしゅう)。
領域はおおむね現在の三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部にあたる。
桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡、河曲郡、鈴鹿郡、奄芸郡、安濃郡、一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡の
十三郡から成る。

能見ヶ原(のみがはら)
三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)辺りの地。

松応寺(しょうおうじ)
三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市松本町)にある浄土宗京都知恩院派の末寺。山号は能見山。
天文十八年、岡崎城内で斬殺された松平広忠の遺骨は、喪を秘すため能見ヶ原の月光庵で密葬されたという。
永禄三年、岡崎帰郷を果たした嫡子 松平元康が、月光庵の地に菩提のため松応寺を建立。
その際、墓上に小松一株を植えて、松平一族の繁栄を祈願し、「我が祈念に応ずる松なり」と松応寺と名づけたと言われている。

松平 親忠(まつだいら ちかただ)
戦国時代の武将。通称は次郎三郎、右京大夫。官位は左京亮。三河松平家第四代当主。
親忠自身の治績はあまり知られておらず、第三代当主 松平信光の三男であった為、本当に家督を継いだのかどうか、
一部では疑問視されている。

菩提寺(ぼだいじ)
代々その寺の宗旨(しゅうし=宗派)に帰依(きえ=仏教にすがること)して、先祖の位牌を納めてある寺。菩提所。
菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。

大樹寺(だいじゅじ)
三河国額田郡岩津(現在の愛知県岡崎市鴨田町)にある浄土宗京都知恩院派の末寺。山号は成道山。
徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。
文明七年(1475年)、松平氏宗家当主の松平親忠が戦死者供養のため、勢誉愚底を開山として創建。
永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康(徳川家康)はここに逃げ帰り、
先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まったという逸話が残されている。




朱子学の道徳を武士に学ばせた。

江戸時代に入り林羅山によって「上下定分の理」やその名分論が、
武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。

だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりという尊王論と、尊王運動が起こり、
後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくことになる。


朱子学の思想は、近代日本にも強い影響を与えた。

明治二十三年(1890年)
教育勅語が下賜されると、近代国家のイデオロギーとして本格的に採用され、
軍部の一部では特に朱子学に心酔する者が多く、
二・二六事件満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。


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林 羅山(はやし らざん)
江戸時代初期の朱子学派儒学者。羅山は号で、諱は信勝。通称は又三郎。
朱子学を藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。
上野忍岡の家塾は、のちの昌平坂学問所の起源となった。

上下定分の理(じょうげていぶんのり、じょうげていぶんのことわり)
江戸時代初期に朱子学の権威確立に尽力した林羅山が打ち出した一学説。
幕藩体制の根幹をなす身分制度を正当化するための理論であり、宇宙の原理すなわち「理」は、
人間関係では上下の身分関係として現れるという考え。

尊王論(そんのうろん)
王者を尊ぶ思想のこと。武力(覇道)をもって支配する「覇」(覇者)に対し、徳(王道)をもって支配する「王」(王者)を尊ぶことを説く。
天皇を「王」、武家政権(幕府)を「覇」とみなし後者を否定する文脈で用いられた。

教育勅語(きょういくちょくご)
明治維新以後の大日本帝国で、政府の教育方針を明記した教育ニ関スル勅語として、明治天皇の名で発表された。
明治維新以後の大日本帝国では、修身・道徳教育の根本規範と捉えられ、
外地(植民地)で施行された朝鮮教育令(明治44年勅令第229号)、台湾教育令(大正8年勅令第1号)で、教育の規範とされた。
国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定し、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど十二の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。

イデオロギー
社会集団や社会的立場において思想、行動や生活の仕方を根底的に制約している観念、信条の体系。
歴史的、社会的立場を反映した思想。

二・二六事件(ににろくじけん)
昭和十一年(1936年)二月二十六日から二十九日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが、
千四百八十三名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件。

満州事変(まんしゅうじへん)
昭和六年(1931年)九月十八日、中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が、
南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、
昭和八年(1933年)五月三十一日、塘沽協定成立に至る、大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)。
中国側の呼称は九一八事変。



次回 第三十九話 戦国の謎 ⇒




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