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戦国時代の事柄は、 果たして本当の事なのだろうか?

 【17//2015】

戦国の謎

稀代の英雄として語り継がれていた松平二郎三郎清康は、
家臣の阿部弥七郎正豊により暗殺されている。

弱体化した松平宗家を守った悲運の英雄、松平次郎三郎広忠もまた、
家臣の岩松八弥により暗殺されている。

清康暗殺の犯人である阿部弥七郎は、その場で植村新六郎氏明によって斬殺されているが、
不思議な事に広忠暗殺の犯人である岩松八弥もまた、氏明によって斬殺されている。


戦国Check✓

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

阿部 正豊(あべ まさとよ)
戦国時代の武将。三河松平家臣。阿部定吉の嫡男。通称は弥七郎。
正豊が斬ったのは清康の孫松平元康(徳川家康)であり、しかもそれは永禄三年(1560年)十二月五日の事であり、
それ以後の徳川家康は世良田二郎三郎元信という影武者とする異説もある。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

岩松 八弥(いわまつ はちや)
戦国時代の武将。三河松平家臣。
岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)を刺殺したとの伝承がある人物。

植村 氏明(うえむら うじあき)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は栄安、新六、新六郎。
松平宗家三代(清康、広忠、家康)に仕え、主君の仇を二度も討った忠義の臣。
天文四年(1535年)、主君松平清康が森山崩れで阿部正豊に斬られ時、正豊をその場で斬殺している。
また、天文十八年(1549年)、主君松平広忠が岩松八弥に斬られた時も、八弥をその場で斬殺し感状を得ている。

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東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)によると、
此時も植村新六郞外のかたより來ながら、おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ、

共にからぼりの中におちいり、終に組敷て八彌を伐はたす。

この植村さきに淸康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ、今度また八彌をも其座をさらず首をとり、

二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と感じうらやまぬ者ぞなかりける



岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)にも、
岩松八弥は植村新六郎氏明によって、「大手先ノ堀ノ中で討ち取られた」とある。

主君暗殺現場に二度も居合わせ、二度とも刺客を斬る。
これは偶然なのであろうか。


戦国Check✓

徳川実紀(とくがわじっき)
十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を
「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、
その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。

岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)
正保二年(1645年)から寛政十年(1798年)の間に編纂された岡崎城領主に関する年代記。
また、井上信好書写朱字加筆および加茂久算貼紙貼付のされている箇所が多数あり、
朱書きや貼り紙の部分の加筆も含めれば、江戸末期の成立といえる。


また、主君を暗殺した阿部弥七郎正豊の罪を問われる事無く、その後も松平家に仕え続けた
阿部大蔵大輔定吉もまた謎である。

阿部定吉と植村氏明との間には何らかの関係性があり、そしてそこには織田弾正忠信秀、
或いは今川治部大輔義元の何らかの策略があったのではないかと思われるがどうなのだろうか。


戦国Check✓

阿部 定吉(あべ さだよし)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は大蔵大輔。
松平宗家に仕えたが、息子弥七郎があやまって主君清康を殺害してしまう。
定吉は息子の過ちを詫びようと自害を図るが、清康の嫡子広忠に止められ、以後、誠心誠意広忠に仕えた。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。





次回 第四十話 人質交換 ⇒




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