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人質を交換する用意があると表明

 【05//2014】

人質交換


天文十八年(1549年)三月六日
三河岡崎城にて松平次郎三郎広忠は謎の死を遂げた。

松平家の次期当主竹千代(徳川家康)が、織田弾正忠家の人質である以上、岡崎城は当主不在の状態になってしまう。
そこに目を付けた今川冶部大輔義元は、広忠亡き岡崎城に事件後僅か十日で、
太原崇孚雪斎を城代として送り込んだのである。


難なく松平宗家の居城岡崎城を掌中に収めた義元は、その八ヶ月後の、
天文十八年(1549年)十一月八日
竹千代の身柄を今川家の保護下に奪還することを狙い、三河安祥城を包囲し、城主織田三郎五郎信広の生け捕りに成功する。
これにより織田弾正忠家は、三河国における足がかりを完全に失うこととなった。


戦国Check✓

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。



織田弾正忠信秀の庶長子 三郎五郎信広の生け捕りに成功した義元は、織田弾正忠家に対し、
竹千代と三郎五郎信広の人質交換を申し出た。

戸部新左衛門政直の仲介により、尾張笠寺で、今川家軍師 太原崇孚雪斎と織田弾正忠信秀との間で、その交渉は行われた。

こうして八歳になっていた竹千代は、岡崎城主の身分のまま今川家の庇護(ひご)の下、駿府(すんぷ)へ送られ、
今川家の武将として育てられることとなる。

東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)によると、
「君は天文十六年六歳にて 尾州の擒とならせられ 八歳にしてことしはじめて御帰國あれば 御家人はいふまでもなし

岡崎近郷の土民までも君の御帰國をよろこぶ所に 今川義元岡崎の老臣等に 竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り

十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば 義元は少将宮町といふ所に君を置まいらせ 岡崎へは駿府より城代を置て

國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戦の先鋒に用ひたり 君かくて十九の御歳まで今川がもとにわたらせらる。

其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。」


義元は松平家を完全に保護下に置き、西三河の拠点となる岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ、
三河国は実質的に今川の属領となっていった。

竹千代が再び岡崎城に戻ったのは、それから十一年後の事であった。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

戸部 政直(とべ まさなお)
戦国時代の武将。通称は新左衛門。尾張国戸部城主。
初め織田氏に従っていたが、今川氏とも関係を持ち、「甲陽軍鑑」によると、安城合戦で織田信広が今川方に降伏した際、
今川義元に信広助命の仲介をしたという。
織田信秀の死後は今川義元に寝返ったとされ、義元の妹婿になったともいう。

笠寺(かさでら)
尾張国愛知郡笠寺(現在の愛知県名古屋市南区笠寺)辺りの地。

庇護(ひご)
弱い立場のものをかばって守ること。

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

徳川実紀(とくがわじっき)
十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。

西三河(にしみかわ)
令制国の三河国の西半分で、矢作川流域の碧海郡、幡豆郡、額田郡、加茂郡から成る地方である。



次回 第四十一話 生き別れた母 ⇒




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