2017 05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30. »  2017 07

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

母親とは三歳で生き別れ、父親とは八歳で死別

 【05//2014】

生き別れた母


天文十八年(1549年)十二月二十七日
八歳の竹千代(徳川家康)は、駿府の今川冶部大輔義元の元へ人質として送られている。


戦国Check✓

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。




竹千代の生母は、三河刈谷城主水野下野守忠政とその夫人於富の方(おとみのかた)(華陽院)との間に生まれた娘であり、名を於大の方(おだいのかた)という。

松平家を愛した於富の方とその娘 於大の方

当時三河で勢力を振るっていた松平二郎三郎清康(徳川家康の祖父)の求めに応じ、
忠政は最愛の妻であった於富の方を清康の元へに嫁がせている。
清康は於富の方の美しさに目をつけ、無理強いして、人質同様に於富の方を奪ったといわれている。
(ちなみに松平広忠の母は青木貞景の娘である)

しかし、天文四年(1535年)
「守山崩れ」で、清康が家臣に殺されると、
後家になった於富の方は、その後、星野秋国、菅沼興望、川口盛祐といった三河の諸将の妻として転々とすることになる。
忠政を含めて、五人の夫をもつことになり、いずれも政略結婚であり、
数奇な運命に弄ばれた女性であった。


戦国Check✓

三河刈谷城(みかわかりやじょう)
三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市城町)にあった城。

水野 忠政(みずの ただまさ)
戦国時代の武将。通称は藤七郎。官位は右衛門大夫、下野守。
尾張緒川城を拠点として知多半島北部をその支配下においていたが、天文二年(1533年)、三河刈谷に新城刈谷城を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせ領土の保全を図った。

華陽院(けよういん)
戦国時代の女性。
三河国刈谷城城主水野忠政の妻で徳川家康の外祖母にあたり、また家康の祖父松平清康の後妻でもあった人物である。
実名は「於富の方」あるいは「於満の方」などと言われている。

於大の方(おだいのかた)
戦国時代の女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。
尾張国知多郡の豪族 水野忠政とその夫人 於富との間に生まれる。
三河松平家との関係を強化するため、松平広忠の正室となり、長男竹千代(のちの徳川家康)を出産する。
しかし忠政の死後、水野家を継いだ兄 水野信元が今川家と絶縁して織田家に従ったため、
於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の三河国刈谷城に返された。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

守山崩れ(もりやまくずれ)
天文四年(1535年)十二月五日早朝に、三河国岡崎城主松平清康が、尾張国春日井郡守山の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件。

後家(ごけ)
夫と死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。





天文十年(1541年)
水野忠政は松平氏との友好関係を継続させる為、
娘の於大を清康の後を継いだ松平二郎三郎広忠に嫁がせている。


天文十一年(1542年)十二月二十六日
広忠と於大の方との間に嫡男竹千代が誕生する。


天文十二年(1543年)七月十二日
忠政が没すると、於大の方の兄である水野下野守信元が家督を継承。
しかし家督を継いだ信元は、松平家と共に付き従っていた今川家を離反
織田家の将来性に賭け、織田弾正忠信秀と同盟を結ぶのである。
今川家の援助でどうにか家命を保っていた広忠は、義元への忠誠を示す為、
織田側についた水野家との断交を決意。
そして於大の方とも離縁することとなる。



天文十三年(1544年)九月
三歳になるわが子を残し岡崎城を出た於大の方は、刈屋の実家へと戻った。
広忠に離縁された於大はその後、兄 信元の意向で、阿古居城主 久松佐渡守俊勝
再嫁し、三男三女をもうけている。
於大の方は、この間も竹千代とは音信を絶えず取り続けたという。
政略結婚がもたらした悲劇である。
いとしいわが子と引き裂かれ、兄の命で再婚し、そして出家へと波瀾にみちた生涯を送った悲運の女性であった。


戦国Check✓

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

尾張阿古居城(おわりあぐいじょう)
尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)にあった城。

久松 俊勝(ひさまつ としかつ)
戦国時代の武将。通称は弥九郎。官位は佐渡守。尾張阿古居城主。
徳川家康の生母於大の方の再婚相手として知られる。
久松氏はもともと尾張国守護斯波氏に仕える国人領主であったが、水野忠政の娘於大(徳川家康生母)を妻とすると、
桶狭間合戦以後、徳川家康に従った。


松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ
真似てみたい 武士の妻の作法 杉山頴男 (著)
もったいない 常識への謀反 (講談社プラスアルファ文庫) 山口 昭 (著)
ものづくりとくらしの日本史 新人物往来社 (編集)


於大の方が元康と名乗りを改めた竹千代と再開したのは、
永禄三年(1560年)五月十七日の事であった。
元康十九歳、於大の方三十三歳の時である。

尾張侵攻する今川軍の先鋒として出陣した元康が、阿古居城を訪ねたからであるという。
十六年ぶりの再会であった。
この日、元康は初めて久松俊勝と、三人の異父弟に会っている。

桶狭間の戦いの後、今川家から自立した元康は、久松俊勝と於大の三人の息子に
松平性を与えて家臣とし、於大を母として迎えたという。





次回 第四十二話 「東の都」 ⇒




CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ



スポンサーサイト

Category: 天文記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。