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義元とかいう公家かぶれ

 【05//2014】

 「東の都」



今川家の人質となった竹千代(徳川家康)は、最も多感な八歳から十九歳までの十一年間を、駿府で暮らすことになる。
駿府に来た竹千代に付き添って面倒を見たのが、祖母の源応尼、のちの華陽院である。
生母である於大の方の母 於富の方であった。


戦国Check✓

今川氏(いまがわし)
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、吉良家の分家にあたる。
吉良氏は足利将軍家の連枝としての家格を有し、その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には、足利宗家の家督を継承することが許された一門。
吉良家を興した吉良長氏の二男である国氏が、吉良氏の所領から三河幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、
現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる。

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

華陽院(けよういん)
戦国時代の女性。
三河国刈谷城城主水野忠政の妻で徳川家康の外祖母にあたり、また家康の祖父松平清康の後妻でもあった人物である。
実名は「於富の方」あるいは「於満の方」などと言われている。

於大の方(おだいのかた)
戦国時代の女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。
尾張国知多郡の豪族 水野忠政とその夫人 於富との間に生まれる。
三河松平家との関係を強化するため、松平広忠の正室となり、長男竹千代(のちの徳川家康)を出産する。
しかし忠政の死後、水野家を継いだ兄 水野信元が今川家と絶縁して織田家に従ったため、
於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の三河国刈谷城に返された。



またこの時、岡崎から竹千代のお供衆として、平岩七之助親吉鳥居彦右衛門元忠
石川与七郎数正ら七名が随行し、共に人質として過ごすことになる。

竹千代の身辺には、岡崎から来た同世代の家臣が遊び友達として同行し、竹千代の身辺の世話をするために祖母が親代わりとなって、駿府で竹千代の面倒を見ていた。
我々が想像する人質生活とは大きな違いがあるが、はたして竹千代が駿府に預けられた本当の理由は何だったのであろうか。


戦国Check✓

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は七之助。官位は主計頭。尾張国犬山藩初代藩主。
人質時代から家康に付き従った家臣。徳川十六神将の一人。
家康の嫡男信康の傅役(もりやく)をつとめ、北条小田原攻めで功をたて、上野前橋城主となる。
のち甲府城代を経て、家康の九男徳川義直の付家老となり、尾張犬山九万三千石を与えられた。

鳥居 元忠(とりい もとただ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門。下総国矢作藩初代藩主。
人質時代から家康に付き従った家臣。徳川十六神将の一人。
姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどで功をたて、家康の関東入国にあたり下総国矢作城主となる。
関ケ原の戦いに際して伏見城の留守をまもるが、西軍の攻撃により戦死。

石川 数正(いしかわ かずまさ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は与七郎。官位は伯耆守、出雲守。信濃松本藩下初代藩主。
人質時代から家康に付き従った家臣筆頭各。
つねに家康に近侍し、家康と織田信長との同盟に重要な役割を果たす。
叔父家成から西三河の旗頭(はたがしら)を継承し、のち家康の嫡子信康付きの家老となり、信康自殺後、岡崎城代となった。
天正十三年、突然岡崎を出奔し豊臣秀吉に臣属。
信濃国深志で八万石を与えられた。



竹千代は駿府での人質時代に、今川治部大輔義元の師である太原崇孚雪斎から学問を受けている。
これは、竹千代を立派な三河領主とするために義元は雪斎をつけ学問をさせたと思われる。

当時の今川家と松平家は主従関係ではなく、あくまでも同盟国である。
竹千代は人質と言うよりは岡崎から来た「客人」或いは「見習い」という立場で駿府に預けられていたのではないか。


戦国Check✓

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。



徳川実紀によると、
「竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。」
松平二郎三郎広忠亡き松平宗家を統率していかなくてはならない竹千代の親代わりとして、
義元が目を光らせ、養育していたという事になる。

義元は、松平家同族間の内部抗争謀反など、度重なる事件を起こす三河衆を統率出来るだけの力を
竹千代に求めていたのではないだろうか。

裏を返せば、傀儡政権を目論んでいた義元は、領民たちより慕われている竹千代を、
三河衆を統率出来るだけの力を備えた今川家に従順な武将として養育・指導したかったからである。


戦国Check✓

徳川実紀(とくがわじっき)
十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

傀儡政権(かいらいせいけん)
事実上の支配者を他の権力者が、背後から管理・統制・指揮している政権である。

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歴史REALvol.1 特集 戦国合戦を科学
歴史REALvol.3 江戸城の謎に迫る
戦国大名 格付け



この頃の義元は、「海道一の弓取り」と呼ばれ、今川家の最盛期を築き上げ、絶大なる力を持った
戦国大名であった。
義元は師である太原崇孚雪斎を軍事・政治の両面の補佐役とし、雪斎の教えのもと領国経営にも卓越した手腕を見せていた。

領国である駿府城下は、「東の京」或いは「東の都」と呼ばれ、戦国期最大の城下町であった。

また義元は、高度な公家文化を取り入れ、文化人としても名高く、中国 周防国の大内氏、北陸 越前国の朝倉氏とともに
戦国三大文化と称された今川文化を開花させている。


戦国Check✓

海道一の弓取り(かいどういちのゆみとり)
海道とは、古代の行政区分で、おもに東海道の事を指し、伊賀国、伊勢国(現在の三重県)から、
太平洋沿いの諸国(現在の愛知県、静岡県、山梨県)そして南関東(現在の千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県)に及ぶ範囲で
誉れある武将の事を指した。
東海地方に一大勢力を築き上げた武将の敬称。

駿河駿府城(するがすんぷじょう)
駿河国安部郡(現在の静岡県静岡市葵区)にあった城。
別名は府中城、静岡城、今川館、府中館。

周防国(すおうのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に位置する。別称は防州(ぼうしゅう)。
領域はおおむね現在の山口県の東南半にあたる。
吉敷郡、佐波郡、都濃郡、熊毛郡、玖珂郡、大島郡の六郡から成る。

大内氏(おおうちし)
家系は百済の聖明王の第三王子である琳聖太子(りんしょうたいし)の後裔。
琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、
後に大内村に居住したことから大内を名乗ったとされる。
代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、実態は不明である。
鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙(こくが)在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。
そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。

越前国(えちぜんのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。別称は越州(えつしゅう)。
領域はおおむね現在の福井県嶺北地方及び敦賀市にあたる。
敦賀郡、丹生郡、今立郡、足羽郡、大野郡、坂井郡、吉田郡、南条郡の八郡から成る。

朝倉氏(あさくらし)
家系は開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする説と、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫であるとする説の二つに分類される。
はじめ日下部氏を名乗るが、平安末期に但馬国養父郡朝倉に移住したことから朝倉氏を名乗るようになる。
その後、越前に移住し、南北朝時代に越前国守護斯波氏に仕えた朝倉広景を祖としている。
越前朝倉氏は、甲斐氏、織田氏と共に斯波三守護代の第二席となり、のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになる。
後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになった。




応仁の乱以降、京都は相次ぐ争乱で経済状態が悪化していたため、公家たちの多くが今川氏を頼り駿河に下向していた。
義元は、京から逃れて来た公家衆を積極的に保護し、和歌、連歌、茶道、香、能など多岐にわたる京文化を吸収することで、
戦国三大文化の華が開いたのである。

駿府の城下は、京から来た公家衆によって造られたと言っても過言ではない。
京の都を手本として駿府の街造りを行ったため、現在でも地名や町名などに京都と同じ地名や町名が残っている。

また義元の生母である寿桂尼が、中御門大納言宣胤の娘であったことなども、
公家衆との親交を深かめた一つの要因であったものと思われる。


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応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

寿桂尼(じゅけいに)
戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)の母。
夫 氏親の死後、剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。
氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐した。

中御門 宣胤(なかみかど のぶたね)
室町時代中期から戦国時代の公卿。官位は従一位権大納言。藤原北家勧修寺流中御門家当主。
後花園、後土御門両天皇の蔵人頭を務めるなど信任厚く、故実、先例にも通じていた。
応仁の乱によって衰退した朝廷の儀式の復興を目ざし、一条兼良に故実を学び、後進の育成に努めた。
和歌もよくし「万葉集」の事項索引とでもいうべき「万葉類葉抄」を延徳三年に編纂している。
日記「宣胤卿記」は、歌会などの諸文芸のほか、朝廷の儀式、公家経済などを知ることのできる記事が豊富で、
室町後期の公家社会を考える上での貴重な史料。




次回 第四十三話 駿府での逸話 ⇒




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