駿府での逸話人質として駿府に来た竹千代(徳川家康)は、
太原崇孚雪斎につき指導を受けるなど、
通常の人質とは大きく違っていた。
戦国Check✓駿河国(するがのくに)かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。
駿府(すんぷ)駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。
太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。
竹千代と雪斎にこんな逸話がある。
ある日、雪斎は竹千代に、大将に大切なものは
兵と
食と
信であると説き、
「この三つの内 やむを得ず一つを捨てねばならぬとすれば何とする」と聞いてみた。
すると竹千代は
兵と答えた。
「兵を持つということは戦をすることであり、兵を持たねば戦にはならない。兵がなくとも生きてはゆける。」というのである。
では、残った
食と
信の内、
一つを捨てねばならぬ時には何とする。
「勿論、信です。食が無ければ人は生きていけませぬ」すると雪斎は、
「それは違う。確かに食は大切であるが、食が無くとも信(心)さえあければ人は生きてゆける。
信(心)がなければ必ずや諍(いさか)いが生じ、いずれ人は滅びるのである。」「人と人とが信じ合えることこそが最も大切である」と幼い竹千代に雪斎が説いたという逸話である。
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竹千代の逸話東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)によると、
「天文廿年正月元日今川が館におはしませしとき。かの家臣等義元が前に列座(れつざ)して拝賀(はいが)す。
君いとけなくてそが中におはしますをいづれもあやしみ。いかなる人の子ならんといふに。
松平清康が孫なりといふ者なれど信ずる者なし。其時君御座をたちて縁先に立せられ。なにげなく便溺(べんでき)し給ふに。
自若として羞怎(しゅうそ)のさまおはしまさず。これより衆人驚嘆(きょうたん)せしとぞ。」天文二十年(1551年)正月元日今川治部大輔義元の館に諸将が集った際、好奇の目にさらされる中で、竹千代は縁側から庭に小便を放った。
傍若無人な行動ではあったが、下品さは微塵も感ぜず、居合わせた諸将は声をそろえて
「剛胆をうたわれた松平清康の孫だけのことはある」と感心したという。
またある日、竹千代は安倍川の河原で子供たちの
石合戦を見物した際の逸話である。
両軍を比べると、人数に倍以上の開きがあり、見ている誰もが、
多勢の側が勝つと口を揃えていう中、
竹千代一人が、
少数の側が勝つと予想したという。
やがて合戦が始まり、少数組が竹千代の予想どおり勝利を収めた。
見事な的中ぶりに、なぜそう思ったのか尋ねると、
「数に勝るとおごれば守りがおろそかになる。
少数の側は一部を伏兵にし、不利を克服する布陣を布いていた。
戦いに臨む態度も少数のほうが真剣であり、結束が固い」と述べたという。
これは、
「竹千代が少年時代から
大将としての器があり、するどい
観察眼を備えていた」という逸話として知られている。
戦国Check✓徳川実紀(とくがわじっき)十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。
今川 義元(いまがわ よしもと)戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。
松平 清康(まつだいら きよやす)戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。
石合戦(いしがっせん)戦国時代の合戦を模して、二手に分かれて石をぶつけ合うこと。
伏兵(ふくへい)戦闘時に先の展開を予想し戦場に隠しておく兵士のこと。
戦法としては古くからあり、『孫子』の兵法に記載されている。
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