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やり場のない憤怒と苦悩

 【05//2014】

尾張の虎の死


尾張のうつけ者などと悪評が立っていた信長を決定的にしたのは、
織田弾正忠信秀が病死した時である。

織田家の菩提寺である萬松寺(ばんしょうじ)で行われた信秀の葬儀は、
三百人もの僧侶をかり集めて経を読ませる盛大なものであった。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

菩提寺(ぼだいじ)
代々その寺の宗旨(しゅうし=宗派)に帰依(きえ=仏教にすがること)して、先祖の位牌を納めてある寺。菩提所。
菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。

萬松寺(ばんしょうじ)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区大須)にある曹洞宗寺院。山号は亀岳山。
天文九年(1540年)、織田備後守信秀が、織田家の菩提寺として開基。
御本尊は十一面観世音菩薩。曹洞宗、大本山總持寺の末寺。
開山は信秀の伯父 大雲永瑞大和尚といわれる。
大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は約五万五千坪に及んだという。


うつけ殿は何をしているのかっ!!(怒)
喪主である信長は、葬儀が始まる午(うま)の上刻(午前十一時から正午)になっても現れなかった。

それに引きかえ弟の勘十郎信行は、礼儀正しく肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)をつけ、
礼にかなった作法を守り、静かに控えていた。

信秀の葬儀の席にも関わらず、信長を新しい主君として仰ぐべきか否かについて家中は騒然となり、意見が分かれた。

信長の傅役(もりやく)である平手中務丞政秀は、このままでは信長はまさしくうつけ者と噂され、
織田弾正忠家の家督は、勘十郎信行が継承するのではないかと気が気でなかった。

そこえ馬のいななきと共に「御惣領様、御到着」の報せが聞こえた。

「(ぬぅぉぁうぅぬぅぅぅ・・・・・・・)」
正気の沙汰とも思えないいでたちで現れた信長に、家臣達は声なき声を上げて驚いた。

葬儀だというのに信長は、長柄の太刀(ながえのたち)をぶら下げて、髪はいつもの茶筅髷(ちゃせんまげ)に結い、
半袴(はんばかま)から足を出していた。
そして腰には荒縄まで巻きつけ、狩りに行ってきた姿そのものであった。

信長は、怒りを抑える重臣たちには目もくれず、仏前に進み出たかと思うと、
抹香(まっこう)を一掴みして「カッ」と叫んで位牌に投げつけるという異様な行動に出たのである。


信長公記によると

「信長御焼香に御出、其時信長公御仕立、長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、

袴もめし候はで仏前へ御出であつて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投懸け御帰り。」


信長のこの異様な行動に、畏怖心(いふしん)を抱いた者は少なくなかった。


戦国Check✓

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

抹香(まっこう)
シキミの葉・皮を粉末にして作った香。
仏前の焼香に用いる。
古くはジンコウとセンダンとの粉末。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

家康、死す 宮本 昌孝 (著)
家康の父は武田信玄だった 
伊賀忍び控え帖 津本 陽 (著)
いくさの子 織田三郎信長伝 1巻 
いくさの子 織田三郎信長伝 2巻



また信秀の死には諸説があり、武功夜話では、喪を伏せたことが記されている。

「天文己酉三月日御逝去了、桃巖禅定(とうがんぜんじょう)という。されども御葬儀は取り行わず、両三年の後これを行うなり。

国中風聞の取り沙汰あれども、某どもその真意を知らぬなり。」


では、なぜ喪を伏せることが必要だったのだろうか。
それは、
当時、織田弾正忠家は、主家織田大和守家を凌ぐほどの力があった為である。


下尾張守護代の織田大和守家や上尾張守護代の織田伊勢守家は、
織田弾正忠家を煙たがっていた。

また、隣国の美濃斎藤家、三河松平家、そして駿河今川家から狙われる存在であった織田弾正忠家では、
時期当主があの「うつけ者」では心もとないと判断した重臣たちの
「織田弾正忠家」を守るための時間稼ぎであった。

その為、この間に家督を巡る内部崩壊が生じ、外敵から家を守る時間稼ぎが逆に織田弾正忠家の結束を弱らせ、実弟の信行との間に確執を生むことになった。


戦国Check✓

武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
三巻本、二十一巻本などいくつかの異本が存在している。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

織田大和守家(おだやまとのかみけ)
尾張守護職・斯波氏の被官である織田氏の一族。
尾張八郡の内、下四郡を支配する守護代。別称は清洲織田氏。
元々は尾張守護代の「織田伊勢守家」の分家にてその代官である又守護代の地位にあったという。

織田伊勢守家(おだいせのかみけ)
尾張守護職・斯波氏の被官である織田氏の一族。
尾張八郡の内、上四郡を支配する守護代。別称は岩倉織田氏。
元々は尾張守護代の「織田総領家」の地位にあった。

斎藤氏(さいとうし)
美濃の斎藤氏は、美濃目代として越前から移り住み、室町時代に美濃守護土岐氏に仕え、その守護代となり勢力を揮った。
戦国時代に至り、その名跡を斎藤道三が継承し、守護土岐頼芸を追放して美濃国主となる。

松平氏(まつだいらし)
室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、
後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。
室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。
江戸時代は徳川将軍家の一門、或いは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、
また将軍家が勢力、格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。

今川氏(いまがわし)
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、吉良家の分家にあたる。
吉良氏は足利将軍家の連枝としての家格を有し、その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には、足利宗家の家督を継承することが許された一門。
吉良家を興した吉良長氏の二男である国氏が、吉良氏の所領から三河幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、
現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる。



喪を伏せていた空白期間に、家臣団の結束に亀裂が生じ、母や兄弟との仲を引き裂かれていく。

信長からしてみれば、父信秀の喪を伏せること事態が間違っており、
重臣たちのその浅はかな考えに腹を立て、抹香を位牌に投げつけるという異様な行動に出たのであるが、
窮地に立たされた自身に対しての、やりばのない憤怒が噴き出たためでもあった。

天文二十年(1551年)三月三日
織田弾正忠信秀死去。
享年四十二歳。
法名「萬松寺殿桃巌道見大禅定門」



次回 第四十五話 尾張国 ⇒




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