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畿内と東国をむすぶ交通の要地 尾張を学ぶ

 【21//2014】

尾張国


天文二十年(1551年)三月三日

織田弾正忠信秀 急死

織田三郎信長が家督を継いだのは、十八歳の時であった。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。



陪臣
尾張国は、東海道の西部に位置し、現在の愛知県西部に相当する。

信長公記によると、

さる程に尾張国は八郡なり。

上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。

半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随え、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、

大和守も城中に候て、守り立て申すなり



織田家は、斯波武衛家の家臣の家柄であり、発祥は越前国織田庄であると云われている。

室町時代、幕府の管領家で越前国や尾張国の守護を務める三管領 斯波武衛家の被官となり、
斯波武衛家と共に分国尾張へ移住し、尾張守護代を務めた。

斯波武衛家と織田家が尾張へ移住することになったのには、朝倉氏との因縁があった。
越前の戦国大名である朝倉家と、織田家には数代前にまでさかのぼる根深い因縁があった。
元々、両氏は、尾張、越前両国の守護斯波武衛家の被官であった。

ところが朝倉氏は、応仁の乱で幕府の為に奮戦し、功績を挙げ、
時の将軍足利義政より越前守護に任ぜられる事になる。

斯波氏に従い、尾張に移住する事となった織田氏は、
主家である斯波氏に取って代わった朝倉氏を、逆臣と罵り(ののしり)、
朝倉氏は依然として斯波氏の被官である織田氏を、陪臣(ばいしん)とさげすみ、両氏の対立は
信長の時代に至るまで続いていた。




戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

武衛家(ぶえいけ)
斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。
武衛とは兵衛府の唐名で、室町時代以降の斯波氏当主が代々左兵衛督や左兵衛佐に任ぜられたことに由来する。

織田庄(おだのしょう)
越前国丹生郡織田(現在の福井県丹生郡越前町)辺りの地。

管領(かんれい)
室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
足利氏一門の斯波氏、細川氏、畠山氏の三家が交代で就任し、「三管領」「三職」と称された。
これと侍所頭人(所司)に任じられた四職(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)を合わせて「三管四職」と呼ばれる。

被官(ひかん)
上級の武士に隷属する武士をいう。主に守護に従属する国人領主をいった。

守護代(しゅごだい)
鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職。
守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。
これが守護代である。
守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。

朝倉氏(あさくらし)
家系は開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする説と、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫であるとする説の二つに分類される。
はじめ日下部氏を名乗るが、平安末期に但馬国養父郡朝倉に移住したことから朝倉氏を名乗るようになる。
その後、越前に移住し、南北朝時代に越前国守護斯波氏に仕えた朝倉広景を祖としている。
越前朝倉氏は、甲斐氏、織田氏と共に斯波三守護代の第二席となり、のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになる。
後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになった。

応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

足利 義政(あしかが よしまさ)
室町時代中期から戦国時代初期の武将。幼名は三寅、三春。官位は右馬寮御監、内大臣、右近衛大将、左大臣、贈太政大臣。
室町幕府第八代征夷大将軍。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎み、幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、
自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

陪臣(ばいしん)
武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。「またもの」、「また家来」とも呼ばれた。

失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎 
失われたイスラエル10支族「神武天皇」の謎 
ヴァルハラ 本多忠勝伝 (ガンガンコミックスIXA) 真壁 太陽 (著)
英雄にっぽん (角川文庫) 池波 正太郎 (著)
描かれた戦国の京都―洛中洛外図屏風を読む 小島 道裕 (著)



系図
織田家は系図の上では、平資盛の子、平親真を祖とする桓武平氏流を自称しているが、
越前国織田庄の織田劔神社の神官の出自であるとされている。

織田劔神社にある藤原信昌 兵庫助弘置文の古文書によると、
鎮守府将軍 藤原利仁の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広父子が、
越前織田家の先祖に関連がある人物と伝えられている。


戦国Check✓

平 資盛(たいら の すけもり)
平安時代末期の平家一門の武将。尊称は小松新三位中将、持明院三位中将。官位は右近衛権中将、蔵人頭。
平家棟梁平重盛の次男。
治承四年の源氏挙兵以来、各地で源氏勢力と戦い、寿永二年従三位となって新三位中将と呼ばれた。
その後、平家一門と都落ちを共にし、元暦二年三月二十四日、壇ノ浦の戦いで戦死。
建礼門院右京大夫(うきょうのだいぶ)との恋愛でも知られる。

平 親真(たいら の ちかざね)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。通称は三郎。官位は権大夫。
織田氏、津田氏の祖とされ、織田 親真とも呼ばれる。
平家滅亡に際して、平資盛は子を身ごもっていた愛妾を近江蒲生郡津田庄の土豪に預け、親真を出産させたと云われる。
その後、親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、剃髪して、覚盛と号し神職についたとされる。

桓武平氏(かんむへいし)
桓武天皇の子孫で、平(たいら)の姓を賜った家系。
中でも葛原(かつらばら)親王の孫高望王(たかもちおう)の流れが有名で、
伊勢平氏や北条氏・畠山・千葉・三浦・梶原などの諸氏を輩出。

劔神社(つるぎじんじゃ)
越前国羽生郡織田(現在の福井県丹生郡越前町織田)にある神社。別名織田明神(おたみょうじん)。
垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣を御神体として奉り、神功皇后摂政の頃に、
第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王が譲り受け、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。
奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受け、
中世以降は、朝倉氏を始めとする多くの武将の崇敬も厚く、特に織田信長による格別の信仰をもって、神領は保護されていた。

藤原 信昌(ふじわら の ぶまさ)
南北朝時代の武将。
明徳四年(1393年)六月一七日に越前国の劔神社宝前に置文を奉納した人物。

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)
日本の奈良時代から平安時代にかけて北辺の防衛のためにおかれた令外官の官職の将軍。

藤原 利仁(ふじわら の としひと)
平安時代中期の武将。従四位下鎮守府将軍。
伝説的な人物として知られ、『今昔物語集』には、「心猛クシテ其ノ道(武勇)ニ達セル者」とあり、
新羅征討を命じられたが、かの地にいた円珍に調伏された話を記す。


尾張国
信長が家督を継承したころの尾張国は、大小二百を越す土豪が乱立していた。

尾張守護代家の織田家は、
尾張岩倉城を居城とし、丹羽、葉栗、中島、春日井の上四郡を領有する織田伊勢守信安と、
尾張清洲城を居城とし、海東・海西・愛知・知多の下四郡を領する織田大和守信友とに分かれていた。
尾張

上郡と下郡とは川で隔てられており、下郡の織田大和守家は、
清洲城で武衛様[斯波義統]を保護しており、その下に清洲三奉行として、
織田因幡守家織田藤左衛門家織田弾正忠家があった。
織田家

三郎信長の生まれた織田弾正忠家は、
守護代であった織田大和守家に仕える清洲三奉行のひとつにすぎなかった。
地方行政のために室町幕府は各地に守護(大名)を任命し、守護の下には守護代が、守護代の下には奉行がいた。

いわば織田弾正忠家の家督を継いだ信長は、地方の弱小田舎領主でしかなかったといえる。
しかしすでに下克上の世となっていたこのころには、守護は守護代に、守護代は奉行に、その座を脅かされていた。

身分の上下など、もはや問題ではない。
力のある者だけが生き残ることができる時代であった。

下克上の世を反映して勢力を伸ばしていった信秀の急死は、尾張の勢力図を一挙に書き換えるのに
十分な出来事であった。

信秀在命中にはおとなしくしていた者が、牙を剥き出しにして様子を伺っている。
敵は尾張の中に留まらず、当時、強大な勢力を誇っていた駿河今川氏からの脅威にもさらされていた。


戦国Check✓

土豪(どごう)
その土地に勢力がある豪族のこと。
一般的には有力な豪族の傘下にあるか、あるいは独立した在地の数村を支配する小さな勢力の豪族のことを指す。

尾張岩倉城(おわりいわくらじょう)
尾張国丹羽郡岩倉(現在の愛知県岩倉市下本町)にあった城。

織田 信安(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は三郎、七兵衛尉。官位は伊勢守。織田伊勢守家第五代当主。
別称は岩倉織田氏。尾張上四郡守護代。尾張岩倉城主。
尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)の出身者とされる。
一説によると父 織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主なるが、まだ幼かったため、
織田大和守家の家臣筋「清洲三奉行」の一家 織田弾正忠家当主織田信秀の弟 犬山城主織田信康の補佐を受けた。
信長とはその父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、
幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。

織田 信友(おだ のぶとも)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第八代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
主家である斯波氏当主 斯波義統を傀儡の守護として擁立するが、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に
家中の主導権を握られていたようである。
また元々は家来筋であった清洲三奉行の一人、織田弾正忠家当主 織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争った。

武衛家(ぶえいけ)
斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。
武衛とは兵衛府の唐名で、室町時代以降の斯波氏当主が代々左兵衛督や左兵衛佐に任ぜられたことに由来する。

斯波 義統(しば よしむね)
戦国時代の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第十四代当主。尾張国守護。
父斯波義達が今川氏親に敗れたあと尾張守護となり、守護代織田信友に擁立されて清洲城にはいる。
信友の専権をおさえるため、密かに織田信長に内通するが、それが信友の知るところとなり、
天文二十三年七月十二日、信友の家臣 坂井大膳により殺害される。

今川氏(いまがわし)
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、吉良家の分家にあたる。
吉良氏は足利将軍家の連枝としての家格を有し、その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には、足利宗家の家督を継承することが許された一門。
吉良家を興した吉良長氏の二男である国氏が、吉良氏の所領から三河幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、
現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる。



次回 第四十六話 社長と会長 ⇒




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