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 【27//2014】

織田信秀が勝ち旗に込めた意味


天文元年(1532年)
織田弾正忠信定は嫡男三郎信秀に家督と尾張勝幡城を譲り、自らは尾張木ノ下城にて隠居する。

信定は凡庸(ぼんよう)な人物ではなく尾張八郡の内、中島郡海西郡に勢力を広げ、
伊勢湾交易の要港津島湊を手中に収めていた。
この津島から得た経済力が、戦国大名としての織田弾正忠家発展の基礎となったと言われている。



戦国Check✓

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。

津島(つしま)
鎌倉時代から、尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として発展した。
全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町として、尾張一の豊かな町として知られた。
織田信定がこの地を押さえて以降、信長までの織田氏三代の経済的基盤が築かれた。




津島
当時津島湊堺湊よりも強大な経済基盤を持っていたと言われ、
尾張、美濃、伊勢、三河の主要な特産物が集散し、麻苧(あさお)、紙、木綿、陶器、塩、油草、海苔、荒布(あらめ)、
佐勢布、曲物(まげもの)、魚鳥など、多様な商品が売買され、甲冑、弓矢などの、武具職人の店も軒を連ねていた。

大永六年(1526年)
駿河今川家の外交顧問であり連歌師でもある宗長が尾張津島を訪れた際、
湊の広さは五、六町、寺々家々が数千軒もあったと日記に記している。



戦国Check✓

麻苧(あさお)
麻の繊維を原料として作った糸。麻糸。

荒布(あらめ)
古くは大宝律令や正倉院の文書にも登場し、現在でも薬品原料、肥料、食料品などとして用いられている。
日本では主に本州太平洋沿岸北中部に分布する。

曲物(まげもの・わげもの)
檜、杉などの薄く削り取った材を円形に曲げ、合せ目を樺、桜の皮などで綴じて作った容器。
曲物を作る職人を曲物師、特に曲げ職人を曲師という。

宗長(そうちょう)
室町時代後期の連歌師。号は柴屋軒。駿河今川家臣。
宗祇に師事して連歌を学び連歌界の指導者となる。
有力な武将や公家との交際も広く、三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能とも交流を持ち、
今川氏の外交顧問であったとも言われている。
「急がば回れ」を唱えた人物としても有名。


懐柔
織田弾正忠信定は津島の富力を財源として掌握する事を目論み津島を制圧するが、
武力で押さえ込むよりも織田弾正忠家の武力を見せ付けた上で和睦し、経済基盤を得るほうが得策と考えた
次期当主三郎信秀は、津島南朝十五党の党首大橋清兵衛重一の嫡子清兵衛重長へ娘を嫁がせ、
津島の懐柔に成功している。
当時、武士が商人と縁を結ぶ事は異例であった。

津島は全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町であり、
木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として、発展した。
津島は特定の領主が支配することはなく町人の自治組織「惣」による都市として栄えた。
その中心となったのが「四家七苗字四姓」の土豪より構成された津島南朝十五党で、
その筆頭にいたのが尾張大橋家であった。



戦国Check✓

大橋重一(おおはししげかず)
戦国時代の武将。津島南朝十五党党首。尾張国津島の商人、豪族。
織田信秀は、重一の恵まれた経済力を後ろ楯に、主家に匹敵するまでに勢力を伸張させた。

大中臣氏(おおなかとみし)
日本古代の中央政権において祭祀をつかさどった貴族。
中臣鎌足の甥 中臣意美麻呂の息子である清麻呂が、神護景雲(じんごけいうん)三年六月「大中臣朝臣」を賜姓され、
以後その子孫は「大中臣氏」と称した。

尾張勝幡城(おわりしょばたじょう)
尾張国中島郡勝幡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にあった城。


天文元年(1532年)
信定は嫡男である三郎信秀に家督と尾張勝幡城を譲り自らは隠居することになる。


勝ち旗
この地は元々塩畑(しおばた)と呼ばれていたが、縁起が悪いということで「勝ち旗」の意味を込めて「勝幡」と改名する。
勝幡村古城絵図によると、
勝幡城は、二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目を果たしていた。
本丸は東西29間(約52.78m)、南北43間(約78.26m)、幅3間(約5.46m)の方形土塁と記されている。

天文二年(1533年)
権大納言山科言継が勝幡城に招かれた際、その規模と出来栄えに驚き日記に記している。
このことから、津島を商業地として支配下に置いた織田弾正忠家の経済力の凄さが窺える。



戦国Check✓

山科 言継(やましな ときつぐ)
戦国時代の公家、廷臣。官位は内蔵頭、正二位権大納言。
「歴名土代」の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
また衰微した宮廷に約六十年間に渉り仕え、朝廷経済のたてなおしに務めた。
大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記「言継卿記」は、
戦国時代研究の好史料とされている。

言継卿記(ときつぐきょうき)
戦国期の公家 山科言継が、大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記。
言継は、有職故実や笙(しょう)、製薬のみならず、和歌、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの
多彩な才能の持ち主で、多くの戦国大名とも交友があった事が記されている。




次回 第三話 庶子と嫡子の戦国時代




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