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過去の過ちを何度もほじくり返さないで

 【17//2015】

古今に比類なき家臣



諫死(かんし)
死んでいさめること。
また、死を覚悟し ていさめること。

諌める(いさめる)
地位・身分が上位にある者にあえて苦言(くげん)を呈(てい)し、
間違った振る舞いや言動を直すよう忠告すること。



天文二十二年(1553年)閏正月十九日

尾張志賀城主平手中務丞政秀  諫死

織田弾正忠信秀三郎信長の二代に仕えるが腹を切って自害。
享年六十二歳。
法名 政秀寺殿功案宗忠大居士


昨今では、自害した理由は他にあったと疑問視されているが、うつけ者と呼ばれていた信長を表す逸話として、
信秀の葬儀政秀の諌死がセットとして代表的なものとなっている。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

尾張志賀城(おわりしがじょう)
尾張国春日井郡志賀(現在の愛知県名古屋市北区平手町)にあった城。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。






信長は幼少の頃、父 信秀から尾張那古野城と四人の家老をあたえられた。

一番家老 林佐渡守秀貞
二番家老 平手中務丞政秀
三番家老 青山与右衛門信昌
四番家老 内藤与三右衛門勝介である。

この四人の家老はそれぞれよく信長を補佐したが、なかでも平手中務丞政秀は、
尾張那古野城に住み込み傅役としてよく補佐した。

政秀は、茶湯や連歌などを嗜(たしな)むインテリの老人である。
対する信長は、手のつけられないうつけ者であった。


戦国Check✓

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。

家老(かろう)
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として
補佐役に抜擢されているが不明な点が多く謎の人物。

連歌(れんが)
鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。
多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。
和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。




やがて元服した三郎信長は、三河大浜への初陣を無事果たすのであるが、
この大事な初陣(儀式)の介添え役は、平手政秀が受け持っている。

また政秀は、美濃国主斎藤山城守道三の娘濃姫(帰蝶)と信長の縁談をまとめている。
これは織田弾正忠家にとって、とても大きな功績であった。

それまで仇敵であった斎藤山城守道三との和睦を成立させたのである。
しかし信長は依然として「うつけ者」であり続けた。


戦国Check✓

三河大浜(みかわおおはま)
三河国碧海郡大浜(現在の愛知県碧南市羽根町)辺りの地。

初陣(ういじん)
日本における武士階級の子弟が初めて戦闘行為に参加すること。
初陣の年齢は個人差があるが多くの場合、元服前後の十代前半が多く、
親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる戦いに参加させる傾向があった。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、
武藝郡、郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。

和睦(わぼく)
争いをやめて仲直りすること。和解。








信長を「うつけ者」として決定付ける事が起った。

それは父信秀の葬儀の席の事である。
定刻を過ぎても現れない喪主信長に対し、苛立ちを隠せない家臣一同。

喪主不在の葬儀が始まり、不安と苛立ちの中 家臣一同のストレスはピークを迎えた。
そこにうつけ姿で現れた信長が、抹香をつかんで信秀の位牌に向かって投げつけたのである。

居合わせた家臣一同が「はぁぁぁあぁぁあぁあぁぁ~」
傅役として補佐していた政秀をも嘆かせることになり、信長を「うつけ者」として決定付ける事となった。



「さる程に、平手中務丞、上総介信長公実日に御座(おざ)なき様体をくやみ、守り立て験(しるし)なく侯へば、

存命侯ても詮(せん)なき事と申し侯て、腹を切り、相果て侯。」


諫死である。
つまり、信長の常軌(じょうき)を逸した生活態度を諫めるための割腹自殺であったと言われているが、
信じ難い話である。


戦国Check✓

抹香(まっこう)
シキミの葉・皮を粉末にして作った香。
仏前の焼香に用いる。
古くはジンコウとセンダンとの粉末。

織田信長のマネー革命 (ソフトバンク新書) 武田 知弘 (著)
織田信長 破壊と創造 (日経ビジネス人文庫) 童門 冬二 (著)
織田信長はなぜ「天才」と言われるのか 武田 鏡村 (著)
織田信長 炎の生涯 (講談社青い鳥文庫) 小沢 章友 (著)
おのれ筑前、我敗れたり 南条 範夫 (著)
女たちの戦国時代 米田 一雄 (著)



また、政秀の死の原因には色々と諸説がある。

「平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。

総領の平手五郎右衛門 能き駿馬を所持侯

三郎信長公御所望侯ところ、にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免侯へと申し侯て、進上申さず候。

信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。」


平手中務丞政秀には三人の息子がいた。
長男、五郎右衛門、次男、監物、三男、甚左衛門という三兄弟である。

五郎右衛門長政が所有していた優れた駿馬を信長が所望したときの話である。

「私は武士を業としています。武士は主君の為に軍事でお役に立つのが本分です。
主君に奉仕するために駿馬を所有していますから、
信長公に差し上げれば軍事的奉仕ができなくなります。」

長政は、信長が所望する駿馬を差し出さなかったのである。

確かに生意気である。

信長はこの件を深く恨み、たびたびこの事を思い出しては不快になり、次第に主従が不和となった。
そして信長は政秀を疎(うと)んじるようになったという。

信長の幼児性が強調されている話ではあるが、リアリティ(現実感)がない。
政秀の死の原因としてはどうも決め手に欠ける内容である。


戦国Check✓

平手 長政(ひらて ながまさ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は五郎右衛門、孫右衛門。平手政秀の嫡男。
家老クラスの人物と思われるが、謎の人物。

平手 久秀(ひらて ひさひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は五郎右衛門。官位は監物。平手政秀の次男。

平手 汎秀(ひらて ひろひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は甚左衛門。官位は監物。
平手政秀の三男或いは兄 久秀の嫡男(政秀の孫)ともいわれる。
織田信長の命を受け、三方原の戦いで徳川家康の援軍として武田軍と戦い戦死。

駿馬(しゅんば、しゅんめ)
足の速い優れた馬。


政秀の死の原因は、五郎右衛門長政の逆心にあった。

五郎右衛門長政は、尾張末盛城主である信長の弟、勘十郎信行に心を寄せていた。

長政は、密使を尾張清洲城に出入りさせ、坂井大膳勘十郎信行との交渉人として働いていた。

その事が、信長の使う諜者によって明るみとなり、その責任を取って政秀は自害する。
長政の逆心は、「うつけ者」であり続けた信長が招いたことであった。

平手中務丞政秀を死に追いやったのは、信長自身である。
政秀の死を悔いた信長は、太田又助牛一に、
政秀の死は諫死であったと信長公記に記すよう命じた。
このほうがリアリティがある。


戦国Check✓

尾張末森城(おわりすえもりじょう)
尾張国愛知郡末森(現在の愛知県名古屋市千種区城山町)にあった城。

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

坂井 大膳(さかい だいぜん)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は大膳。官位は大膳亮。
織田大和守家臣。尾張小守護代、又守護代。
坂井甚助、河尻与一、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

諜者(ちょうじゃ)
敵の内情などをひそかに探る者。スパイ。間者。

太田 牛一(おおた ぎゅういち、うしかず)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は又助。官位は和泉守。
織田家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。
その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治めた。
文才に優れ、信長、秀吉、秀次、秀頼、家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である「信長公記」が特に有名。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。



幼くして両親と離れ尾張那古野城主となっていた信長にとって、政秀は、親以上の存在であった。
政秀にとっても、我が子同様、或いはそれ以上に手の掛かる主君の御子息 信長が愛おしかった。
政秀の自害を知り信長は号泣したと言われている。

信長の政秀に対するこんな逸話がある。
近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃の話である。

近臣たちが信長に、
「このように強大勢力になるとも知らずに平手中務丞が自害したのは、短慮軽率(たんりょけいそつ)でありました。」
と媚(こ)び諂(へつら)う近臣に対し、

信長は、
「わしがこのように弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。
自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそである。
古今に比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」
と語ったという。

また、信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、
その一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。

信長は政秀の死を悼んで春日井郡小木村に政秀寺を建立し、禅僧の沢彦宗恩に託している。
信長は幼いころからの傅役としての苦労に報いようとしたのである。


戦国Check✓

鷹狩り(たかがり)
鷹などの鳥を使った狩猟の一種。
タカ科のオオタカ、ハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、
鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、餌とすりかえる。
あるじの元に運んでくるというのは俗信である。

河狩り(かわがり)
川で、水をせき止めたり、投網を打ったりして魚を捕ること。

小木村(こきむら)
尾張国春日井郡小木村(現在の愛知県小牧市)辺りの地。

政秀寺(せいしゅうじ)
現在 愛知県名古屋市中区栄にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は瑞雲山。
もともとは天文二十二年に織田信長が、家臣平手政秀を弔うために小牧山の南にある小木村に創建したのが始まりである。
その後慶長十七年に、現在の地に移転した。

沢彦 宗恩(たくげん そうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、
中国周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。









次回 第五十話 若き当主 ⇒




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