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底知れぬ信長力に脱帽

 【05//2014】

若き当主



下克上により美濃国主となった斎藤山城守利政は、人心が離れることを恐れ、
土岐氏の血を継ぐ斎藤新九郎義龍を正統後継者として家督を譲り、
自らは美濃常在寺で剃髪(ていはつ)し、出家して道三入道と称していた。

戦国Check✓

下克上(げこくじょう)
下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡、郡上郡、
加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

土岐氏(ときし)
家系は清和天皇を祖とする清和源氏の一つ摂津源氏の流れを汲む美濃源氏嫡流として美濃国を中心に栄えた。
五職家の一角を占めるとともに美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三か国の守護大名となった。
家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。
土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。
「土岐桔梗」と呼ばれ、旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

常在寺(じょうざいじ)
美濃国厚見郡今泉(現在の岐阜県岐阜市梶川町)にある日蓮宗京都妙覚寺の末寺。山号は鷲林山。
斎藤道三が妙覚寺の僧だった長井新左衛門尉の美濃国に築いた地位を基盤として、
美濃国主となりこの寺に寺領を与え保護し発展させた。
斎藤道三と長井新左衛門尉が二代にわたり美濃国を制する拠点とした寺である。


道三は、娘婿の信長を皆が「たわけ」「うつけ」と呼んでいるが、それでいて戦上手と聞いていた。
うつけでいて戦上手とはいったいどんな若者なのであろうか。
道三は三郎信長という若者に興味を覚え始めていた。

天文二十二年(1553年)四月十八日
尾張富田の聖徳寺で、斎藤山城守道三織田上総介信長の会見が行なわれた。

信長公記によると
山城道三と信長御参会の事
「四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷(まか)り出づべく侯間、

織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、申し越し侯。

斎藤山城道三存分には、実日になき人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧にて、

古老の者、七、八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、

其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し侯。」


平手中務丞政秀が、 諫死して間のない

天文二十二年四月上旬
美濃斎藤家の侍大将猪子兵助高就が、使者として尾張那古野城を訪れた。

斎藤山城守道三が、富田の聖徳寺にて、織田上総介信長と対面したいとの旨の書状を携えていた。
道三は、政秀が腹を切ったと聞いて、ますます信長のうつけっぷりを、我が目で確かめてみたくなったのである。

道三は、信長がはたして本当にうつけ者なのか否かを自ら判断してやろうと、
八百人の重臣たちに肩衣(かたぎぬ)、袴(はかま)で正装させ、寺前に整列させて、その前を信長の行列が通るように配置した。

綺麗に統制の執れた美濃斎藤家の力を、信長とその家臣団に見せ付けようとしていたのである。
そして道三自身は、町屋の家に隠れ、やって来る信長の行列を覗き見していた。


戦国Check✓

剃髪(ていはつ)
僧侶が出家するとき、俗世間を捨てて仏弟子になる心を表明するために髪をそり、円頂になること。

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

聖徳寺(しょうとくじ)
尾張国中島郡冨田村(現在の愛知県一宮市)にあった真宗大谷派の寺院。山号は七宝山。
天文二十二年、織田信長と斎藤道三がこの寺で会ったことで知られる。
鎌倉時代後期の寛喜年間、閑善の開山により尾張国大浦(現在の岐阜県羽島市)に創建された寺で、
その後尾張国冨田村(現在の愛知県一宮市)、清洲などを転々とし、寛永年間に現在の名古屋市中区錦三丁目に移ったが、
最近現在の名古屋市天白区に移転した。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

諫死(かんし)
死んでいさめること。また、死を覚悟していさめること。

侍大将(さむらいだいしょう)
侍を預かり各種足軽(弓・鉄砲・槍)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などを指揮する者。
戦国時代には総大将の次席、足軽大将の上席にあって、戦国大名の軍制において主要な役割を果たした。
著名な侍大将に西国の戦国大名 大内義隆の家臣で周防国守護代 陶晴賢がおり、西国無双の侍大将と称された。

猪子 高就(いのこ たかなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は兵助。斎藤家、織田家 家臣。
斎藤道三に側近として仕え、正徳寺の会見の際、ひそかに織田信長を観察する道三の側に控えていたという。
道三死後は信長に仕え、罪人糾明・検使などを務めた。
信長側近として信長配下の軍団長格の武将との仲介連絡役として活躍し、吉田兼見(兼和)も度々贈答品を送るなどしている。
天正十年、本能寺の変にて織田信忠とともに二条城に篭り討死。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。



「其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、

のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、

御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、

御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、」


茶筅(ちゃせん)の髪に湯帷子(ゆかたびら)の袖をはずし、大小は差していたものの荒縄で腰に巻きつけ、
芋縄(いもなわ)を腕輪にし、腰には猿使いのように火打ち袋や瓢箪(ひょうたん)を七つ八つぶらさげ、
虎革と豹革の半袴(はんばかま)、といった格好で、供の者を七百人ばかり引連れ、足軽を先に立て、
三間間中柄の朱槍五百、弓鉄砲五百ほどを従えててやって来た。

いつも通りのハイファッションである。

群雄がひしめく戦国の世であり、ましてや相手は梟雄(きょうゆう)美濃の蝮こと、斎藤道三である。
聖徳寺へ向かう娘婿である信長の姿は、皆が噂するうつけ者そのものであった。
しかし、そんなうつけ者の信長の姿よりも、並々ならぬ軍備に道三は驚くことになる。

三間間中柄(さんげんまなかえ)という美濃衆の槍より長い 朱槍の槍隊が五百
弓隊鉄砲隊各々五百を従えて行軍する信長の隊列に、道三は思わず目を疑った。

広大な美濃国を治める斎藤家に対し、尾張国の半国すら領しない織田弾正忠家の若き当主信長の軍事力の凄さである。


戦国Check✓

茶筅(ちゃせん)
茶道において抹茶をたてるのに使用する茶道具のひとつ。
湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。

湯帷子(ゆかたびら)
入浴の際、または入浴後に着た、麻や木綿の単(ひとえ)。湯具。ゆかた。

梟雄(きょうゆう)
残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。
戦国三大梟雄として、「北条早雲」「斎藤道三」「松永久秀」を主に指す。

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

上総介書店
海王 宮本 昌孝 (著)
覚悟が決まる 人生が変わる 戦国武将の言葉 戦国名将研究会 (著)
家系図の世界―あなたのルーツを辿ってみよう! インデックス編集部 (編集)
影武者徳川家康 隆 慶一郎 (著)
火天の城 山本 兼一 (著)
家紋の世界―あなたのルーツはここにあった! インデックス編集部 (編集)



日本に鉄砲が伝来したのは、
天文十二年(1543年)八月二十五日

種子島左兵衛尉時尭が、ポルトガル人から二挺の火縄銃を購入したことから始まる。
当時の火縄銃は、一挺 壱千両もする高価なものであった。

戦国時代の貨幣単位は基本的にが使われており、千文で一貫、四貫で一両となる。

竹千代(徳川家康)が、戸田弾正少弼康光によって織田家に売り渡された際の金額が、銭千貫文であり、
これを現在の貨幣価値に換算すると約一億五千万円程と言われている。
逆算すると、一文百五十円程の金額になる。
少し高い様な気もする。

戦国時代の貨幣価値は、各国ばらばらで、また時期的な変動があった事から一概には言えないらしく、平均的な数字としては、
一文五円五十円と価値に巾があったようだ。

一文 = 三十円程で計算してみたとしても、一貫 = 三万円、一両 = 十二万円という事になり、
壱千両は、約一億二千万円程度となる。

えっ 一億!!
火縄銃 一挺で一億円!!

一文を十円程で計算してみたとしても、
火縄銃 一挺で四千万円!!ということになる。

信長はこんな高価な火縄銃を、五百挺も所有していたという。

尾張国は約五十七万千石である。
(※大名家は、その規模を禄高であらわし、単位を石としていた。)
尾張八郡の内、織田弾正忠家の領地が、その内の二郡として、単純計算で十四万三千石となる。
一石を米二.五俵(ひょう)(150kg)として表し、十四万三千石ということは、三十五万七千五百俵ということになる。

米の一般的価格帯が10kg 三千円とすると、十四万三千石では、六十四億三千五百万円となる。
織田弾正忠家の年間国家予算は、六十四億三千五百万円というわけだ。

ではなぜ信長は、これだけの数の火縄銃を所有する事ができたのか。
それは貿易都市商業都市として栄えた津島湊を手中に収めていたからである。

織田弾正忠家の経済力は、美濃国主である斎藤山城守道三を遥かに凌駕していた。

目の前をうつけ姿で通り過ぎようとする、弱冠二十歳の若き当主信長の底知れぬ経済力に、
道三は驚きを隠せなかった。

あわよくばこの機会に尾張国を奪い取ってやろう、という企みを持っていたかどうかは解らないが、
道三は、弾正忠家の軍事力、そして経済力に驚き、いつしか信長に感服するようになっていた。
道三もまた信長のその行動に魅了されていくことになる。


戦国Check✓

種子島 時尭(たねがしま ときたか)
戦国時代の武将。幼名は犬楠丸。官位は左兵衛尉、弾正忠、左近衛将監。種子島氏の第十四代当主。
天文十二年(1543年)、種子島南端に漂着したポルトガル人より鉄砲二挺を購入し、
刀工八板(やいた)金兵衛に鉄砲の製法を学ばせ作らせている。
これが我が国鉄砲伝来の初見とされている。

火縄銃(ひなわじゅう)
初期の鉄砲の形態のひとつ。先込め式で、黒色火薬を使用する。
火縄銃は、十五世紀前半にヨーロッパで発明され、特にドイツにおいて発展した。
最古の記録は1411年のオーストリア写本Codex Vindobana 3069にZ字型のサーペンタインロック式が見られる。
また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図が残っている。
マッチロック式銃と分類されるこれらの小火器の発射構造は、バネ仕掛けに火縄を挟んで保持しておき、
発射時には火縄に火をつけ、引き金を引いてバネ仕掛けを作動させ、発射薬に点火するものであった。

戸田 康光(とだ やすみつ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は弾正少弼。三河田原城主。
三河国渥美郡大崎郷を領した、渥美郡田原城主 戸田弾正忠憲光の嫡孫。
田原城を根拠に渥美半島、三河湾一帯に勢力を振るった。
初名は渥美半島統一をなした曽祖父宗光にあやかり、宗光と名乗るが、松平清康に従属して、偏諱を受けて康光と改める。

津島(つしま)
鎌倉時代から、尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として発展した。
全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町として、尾張一の豊かな町として知られた。
織田信定がこの地を押さえて以降、信長までの織田氏三代の経済的基盤が築かれた。


次回 第五十一話 並々ならぬ器量 ⇒




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