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彼を待ち受ける運命や如何に!?

 【05//2014】

大義名分



筋目なき御謀叛思食たち
天文二十二年(1553年)七月十二日
尾張国守護 斯波治部大輔義統が、
守護代 織田大和守信友と、その家臣坂井大膳によって殺害される。

この頃の義統と信友は、尾張下四郡の実権をめぐり主従が不和であった。

この事件は、義統による「信友排除の策動」をいち早く察知した信友によるクーデターであった。

信長公記によると
「主従と申しながら、筋目なき御謀叛思食たち」と記されており、義統のこの計画を批判している。

守護といえども実力のない義統は、傀儡であったとはいえ
守護代である信友やその家臣坂井大膳に従うべきであったという事である。

主君はその地位を保証されている限り、実権の有無に拘わらず、
家臣の排除を企てればそれは「筋目なき御謀叛」とみなされるのである。

正当性は守護代 織田大和守信友にあるということになる。

しかし、
「武衛様逆心おぼしめし立つると雖も、譜代相伝の主君を殺し奉り、其因果忽ち歴然にて、
七日目と申すに各討死、天道恐敷事共なり」


たとえ主殺しに正当性があったとはいえ、家臣が代々に渡る長い主従関係であった主君を殺した事に、
「天道」(「仏天の加護」、正当性)は無く、「其因果」はたちまち現れて自滅となってしまうと記されている。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

斯波 義統(しば よしむね)
戦国時代の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第十四代当主。尾張国守護。
父斯波義達が今川氏親に敗れたあと尾張守護となり、守護代織田信友に擁立されて清洲城にはいる。
信友の専権をおさえるため、密かに織田信長に内通するが、それが信友の知るところとなり、
天文二十三年七月十二日、信友の家臣 坂井大膳により殺害される。

守護代(しゅごだい)
鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職。
守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。
これが守護代である。
守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。

織田 信友(おだ のぶとも)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第八代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
主家である斯波氏当主 斯波義統を傀儡の守護として擁立するが、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に
家中の主導権を握られていたようである。
また元々は家来筋であった清洲三奉行の一人、織田弾正忠家当主 織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争った。

坂井 大膳(さかい だいぜん)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は大膳。官位は大膳亮。
織田大和守家臣。尾張小守護代、又守護代。
坂井甚助、河尻与一、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。




「主君殺しに天道は無く、その因果によって罰せられるべきである。」
織田上総介信長にとって、織田大和守信友は眼の上の瘤(こぶ)であった。
そこで信長は、「主家を討った謀反人」として、信友を討つ大義名分を掲げるのである。

清洲攻撃の大義名分を得た信長は、すぐさま柴田権六勝家に清洲城攻めを命じた。



柴田権六、中市場合戦の事
「七月十八日、柴田権六、清洲へ出勢。
あしがる衆我孫子右京亮、藤江九蔵、太田又助、木村源五、芝崎孫三・山田七郎五郎、此れ等として、三王口にて取合ひ、
追ひ入られ、乞食村にて相支ふること叶はず、誓願寺前にて答へ候へども、終に町口大堀の内へ追ひ入らる。
河尻左馬丞、織田三位、原殿、雑賀殿切つてかゝり、二、三間扣き立て侯へども、
敵の鑓は長く、こなたの鑓はみじかく、つき立てられ、然りと雖(いえど)も、一足去らずに討死の衆、
河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理、原殿、八板、高北、古沢七郎左衛門、浅野久蔵、歴々三十騎計討死。
武衛様の内、由宇喜一、未だ若年十七、八、明衣(みょうえ)のしたてにて、みだれ入り、織田三位殿頸(くび)を取る。
武衛様逆心おぼしめし立つると雖も、譜代相伝の主君を殺し奉る其の因果、忽(たちま)ち歴然にて、七日日と印すに、各討死。
天道恐ろしき事どもなり。」



天文二十二年(1553年)七月十八日
柴田権六勝家が、清洲に総攻撃をしかけた。
柴田勢は、清洲勢と誓願寺(せいがんじ)前で激突し、散々に討ち破った。
清洲勢も反撃を試みるが、信長考案の三間半長柄鑓隊(さんげんまなかえやりたい)の活躍が目覚しく、
清洲勢の武将 河尻左馬丞与一織田三位、など三十騎余りが討死している。

この戦で、斯波義統の家臣 由宇喜一(ゆうきいち)という十七・八歳の若武者が、
見事逆臣 織田三位の首を挙げ義統の仇を討ったと言う。

またこのとき、勝家の兵卒として出陣した足軽衆の中に、太田又助の名があるが、
これは、信長公記の著者太田又助牛一のことである。
牛一は、成願寺の小坊主だったが、還俗して勝家に仕え、その後、信長の弓衆として召し抱えられている。

戦国Check✓

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

誓願寺(せいがんじ)
尾張国春日井郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区白鳥)にある浄土宗西山深草派寺院の末寺。山号は妙光山。
享禄二年(1529年) 善光上人により創建の尼寺。
久安三年(1147年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝がこの地で誕生したといわれ、産湯の井戸といわれるものが境内に残っている。

河尻 与一(かわじり よいち)
戦国時代の武将。通称は左馬丞。織田大和守家臣。
坂井大膳、坂井甚助、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

織田三位(おだ さんみ)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は三位。織田大和守家臣。
坂井大膳、坂井甚助、河尻与一らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

太田 牛一(おおた ぎゅういち、うしかず)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は又助。官位は和泉守。
織田家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。
その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治めた。
文才に優れ、信長、秀吉、秀次、秀頼、家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である「信長公記」が特に有名。



次回 第五十五話 密約 ⇒




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