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神仏の罰をうける者

 【05//2014】

反古された密約



天文二十三年(1554年)四月二十日
尾張清洲城内で織田孫三郎信光の謀略により、織田大和守信友自害。

信長公記によると、
「四月廿日、坂井大膳御礼に、南やぐらへ御礼参り侯はゞ、御生害なさるべしと、人数を伏せ置き、相待たるゝのところ、

城中まで参り、冷じきけしきをみて、風をくり、逃げ去り侯て、直ちに駿河へ罷り越し、今川義元を憑み、在国なり。

守護代織田彦五郎殿を推し寄せ、腹をきらせ、清洲の城乗取り、上総介信長へ渡し進められ、

孫三郎殿は那古野の城へ御移る。」
とある。

孫三郎信光が、ものものしい軍備で待ち伏せているとの報を耳にした坂井大膳は、
事前に危険を察し、主君信友を残し清洲城から逃亡
残された大和守信友は、信光勢に押し寄せられ切腹(自害)させられている。
清洲城奪取に成功した信光は、城を上総介信長に渡し、自身は信長のいた尾張那古野城に入った。



戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

織田 信光(おだ のぶみつ)
戦国時代の武将。通称は孫三郎、法名は梅岩または梅厳。
織田信秀の弟で、織田信長の叔父にあたる。
武勇に優れ、兄信秀に従い武功を挙げ、小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
信秀の死後は、家督を継いだ甥の信長をよく補佐した。

織田 信友(おだ のぶとも)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第八代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
主家である斯波氏当主 斯波義統を傀儡の守護として擁立するが、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に
家中の主導権を握られていたようである。
また元々は家来筋であった清洲三奉行の一人、織田弾正忠家当主 織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争った。

坂井 大膳(さかい だいぜん)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は大膳。官位は大膳亮。
織田大和守家臣。尾張小守護代、又守護代。
坂井甚助、河尻与一、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。



信長は、「謀叛」にならぬよう慎重な配慮のもと、清洲城を乗っ取っている。
尾張国守護斯波治部大輔義統が信友に殺害されると、その嫡子岩竜丸(後の斯波義銀)を擁護し、
「義統の仇討ち」の大義名分を掲げ、「信友討伐」の兵を挙げる。

まず、「義統の仇討ち」は、岩竜丸の求めにより、信長の手により果たされた。
次に、清洲場内の内紛に乗じ城を乗っ取った叔父信光より清洲城を譲り受けた信長は、
「義銀を国主」として清洲城に迎え入れている。
そして最後に、信長は、義銀の擁護を名目に清洲城を自らの居城とし、
「謀反人」として叔父信光を殺害するのである。


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尾張下四郡のうち二郡の割譲(かつじょう)

尾張下四郡を得た信長は、尾張の守護所であった尾張清州城を居城とし、
信光に河東二郡(愛知郡・知多郡)と尾張那古野城与えた。

これは上総介信長孫三郎信光の間で交わされた密約である。
信長は、叔父信光と協力して、謀略(ぼうりゃく)の末に清洲城奪取に成功している。
しかし、清洲城奪取に成功した信長は、功績のあった信光とのこの密約を、反古(ほご)している。

信長公記によれば、
「其の年の霜月廿六日、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化(ごせんげ)。

忽(たちま)ち誓紙の御罰。天道恐ろしきかなと、申しならし侯へき。併せて、上総介政道御果報の故なり。」
とある。


天文二十三年(1554年)十一月二十八日
織田孫三郎信光は、家臣によって暗殺されてしまうのである。
誓紙を破った罰が当たったのであろうと信長公記に記されている。

「表裏あるまじきの旨、七枚起請を大膳かたへつかはし、相調へ侯」


七枚起請文
起請文とは、誓約内容を記した前書とよばれる確言と、もし誓約に背けば神仏の罰をうけるという
自己呪詛文言を記した神文・罰文からなり、護符の一種である牛玉(ごおう)宝印を料紙とする。

人と人とが約束をとりかわすとき、神仏を仲立ちとし、偽りがあればその神仏の罰をうけることを誓い、
その誓いを文書に書いたものであり、熊野牛王(ごおう)の誓いの言葉を記した誓紙である。


信光は、神仏と誓う誓紙七枚も、坂井大膳と交わしている。
七枚も書いた起請文を破棄する信光を、世間はどう見るのであろうか。
七枚もの誓紙を交わしておきながら、それを悠然と破棄し、主家である織田信友を自害にまで追い込んだ「謀反人」
孫三郎信光は、「神仏の罰をうける者」としては十分なのではないだろうか。


信長は、尾張下四郡の支配者となるために叔父信光を「神仏の罰をうける者」に仕立て上げたのではないだろうか。


甫庵信長記によると、
「北の方」(信光夫人)と通じていた、坂井孫八郎により殺害されたと記されている。
信光の正室が、家臣の孫八郎と浮気していた・・・
那古野城下で、「孫八郎と北の方様が、人目を忍んで交情している。」との隠微(いんび)なが囁(ささや)かれはじめ、事の重大さに恐れをなした孫八郎は、信光に殺される前に、信光を暗殺してしまったというのである。

「謀反人」としての叔父信光を「神仏の罰をうける者」として信長が始末したのである。
この暗殺事件は、信長の密命を受けた坂井孫八郎による暗殺であったのである。

信長は、弾正忠家に匹敵する力を持つ事になろう孫三郎信光を、
「神仏の罰をうける者」として始末したのである。



余談ではあるが、
ルイス・フロイス(Luís Fróis)著:Historia de Japam(日本史)には、
「信長みずからが神体であり、生きた神仏である。

世界には他の主はなく、彼の上に万物の創造主もないといい、地上において崇拝されんことを望んだ」
と記されている。


後年、第六天魔王と称した信長の傲慢さは膨れ上がり、やがてとなっていく。
神となった信長が懲罰を与えた=「天罰が下った」という形で、信光暗殺の件を信長公記に記させたのかもしれない。




次回 第五十七話 信長の叔父 ⇒




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