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子どもの将来に役立つ習い事は?

 【19//2014】

少年の戦争哲学

織田三郎信長が単なるうつけではないことは歴史が証明している。


織田信長はなぜ「天才」と言われるのか(知的生きかた文庫) 武田 鏡村 (著)
戦国人物伝織田信長 (コミック版日本の歴史)
第六天魔王 織田信長



競争
信長は幼少期より常々、武術や水泳、鉄砲の訓練など、あらゆる武芸の稽古に励み、
桶狭間の戦いでは自ら馬を下りて奮戦するなど、武勇にも秀でた武将であった。

また信長は、自身の武芸の稽古だけではなく、
将として「いかにして強い兵を育てるか」という事にも余念がなかった。

信長がまだヤンチャ坊主だった頃の逸話が「甲陽軍鑑」に記されている。
離れて暮らす吉法師の下に母土田御前から金一封(十疋=約百銭)が届けられた。
吉法師は母からのこの贈り物を大層喜んだがその使い方がいかにも「信長らしい」のである。

これは吉法師が子供たちを集めて竹や木で槍や刀をつくり、合戦ごっこをして遊んだ時の逸話である。
吉法師はどうしてもその合戦ごっこに勝ちたくてある作戦に出る。
まず、三十人ばかりの子供の中から特に強そうな者を選び、金を前金として与えた。
その後子供たちを二つの隊に分け、戦うという作戦である。

ここで最も重要なことは、隊を二組に編制したことである。

隊を二組に編制することで両者を競わせることになり、両者の潜在能力を引き出させる効果があった。

勝利をあげた吉法師は約束通り残りの金を与え、特に力を発揮した子供には、別に褒賞金を与えたという。

これを知った大人達は

「さても頼もしい子供だ。」

「戦う前に大勢の中からよい者を選び出して銭を与え、戦いが済んでからまた銭を与えるという発想は並ではない。」

「将来名将になるに違いない。」と褒め称えた。


戦国Check✓

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)
甲斐国の戦国大名 武田氏の戦略、戦術を記した軍学書。全五十九品。
武田信玄、勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。

土田御前(どたごぜん)
戦国時代・安土桃山時代の女性。
織田信秀の継室(織田達勝息女が最初の正室であるが離縁)。実名は不明。別称は花屋夫人。
法名は報春院花屋寿永大禅尼。
織田信長、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母。




創出
があるからこんな遊び方が出来るのであって、とりわけ信長が凄いとは思わない。
凄いのは子供が遊びで金をばら撒いているのに何も怒らない信秀や傅役の大人達の頭の中である。

後年、信長は黒母衣(くろほろ)・赤母衣(あかほろ)と呼ばれる精鋭部隊を編成し、強兵部隊を創出する。
通説では弱兵とされていた尾張兵を、三河兵や美濃兵と互角に渡り合える強兵へと信長は変化させている。

天王寺の戦いで三千余の兵を率い救援に駆けつけた信長は、本願寺勢一万五千余を相手に突撃を敢行し、
敵陣を切り崩し、見事天王寺砦の救援を成功させている。
しかもそれだけでは無い。
尚も続く執拗な本願寺勢を相手に、「多勢に無勢である」と反対する諸将を押し切り、
「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由」と言い放ち、再度突撃を敢行し、
本願寺勢二千七百余りを討ち取っている。

信長は、自己鍛錬を行なうのと同時に精鋭部隊を鍛え上げ、身体能力に優れた兵を常に補充していくのである。


戦国Check✓

母衣(ほろ)
日本の軍装の一種。幌・保侶とも書く。
元来は平安時代末期に生まれた懸保侶(かけぼろ)という戦闘用補助防具である。
武士の組織化が進んだ戦国時代では、敵味方から識別しやすくする為、赤や黄など目立つ色で着色され、大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われた。

天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)
石山合戦の一環として天正四年(1576年)に行なわれた織田信長と一向一揆との戦い。天王寺砦の戦いともいう。



鍛錬
信長公記(しんちょうこうき)によれば、

信長十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。

馬を朝夕御稽古、又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり・・・


市川大介めしよせられ、御弓御稽古。

橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古。

平田三位不断召し寄せられ、兵法御稽古。

御鷹野等なり



十七、八歳頃までは、これといった遊び事はせず、馬を朝夕に稽古し、
三月から九月までは川で水泳をしている。

また、市川大介を呼び寄せて弓の稽古
橋本一巴を師匠として鉄炮の稽古
平田三位を側に呼び寄せて兵法の稽古と、
世にきこえた名人上手を身辺から離さず、懸命の稽古をつづけたと記されている。

「信長公記」の文中で「うつけ」者を紹介する文面と一緒に記されている部分である。

乗馬、水練、弓、鉄砲、兵法、・・・・そして鷹狩
奇抜な格好や振る舞いをしようとも戦国武将としての分別は十分すぎるほど持っていた事も伺える。

幼少期の信長は毎日毎日こうした武芸の稽古に励んでいたという。
そして教育係には、茶湯(ちゃのゆ)や連歌(れんが)を嗜(たしな)むインテリの平手中務丞政秀
片時も離れず信長に付き従っている。



戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。


信長は戦国武将の嫡子としてそれなりの礼法も学んでいた

大うつけどころかなかなかの若武者であった。

けっしてただの「うつけ」ではないことが窺い知れる。


あるじは信長 岩井 三四二 (著)
いくさの子 織田三郎信長伝 原哲夫(漫画)、北原星望(原作)
桶狭間戦記-センゴク外伝 講談社 宮下 英樹 (著)
織田信長 戦国最強の軍事カリスマ 桐野作人 (著)


次回 第六話 400年以上生き続ける男 ⇒




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