2017 07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 09

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

新兵器の登場

 【05//2014】

村木攻城戦


尾張侵攻を目論む今川治部大輔義元は、刈谷・緒川の連絡経路を封鎖。

危機的状況に陥った水野下野守信元より、援軍要請を受けた織田上総介信長は、
水野家救援に兵を挙げた。

ここで信長は思い切った行動に出る。


天文二十三年(1554年)一月二十日
留守中に清洲勢が、領内を急襲(きゅうしゅう)することを恐れた信長は、
斎藤山城守道三が援軍として差し向けた安藤伊賀守守就と美濃勢一千に
留守居として居城尾張那古野城を守らせたのである。

正気の沙汰とは思えない人員配置である。
同盟国とは言え、先代弾正忠信秀時代には、幾度と無く戦争をおこなっていた、宿敵斎藤家の重臣に、居城を任せたのである。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

刈谷(かりや)
三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)辺りの地。

緒川(おがわ)
尾張国知多郡緒川(現在の愛知県知多郡東浦町緒川)辺りの地。

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

安藤 守就(あんどう もりなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新九郎。官位は伊賀守、日向守。美濃北方城主。
斎藤氏の重臣であり、氏家直元、稲葉一鉄とともに美濃三人衆といわれた。
のち織田信長に属するが、子の尚就(ひさなり)が武田信玄に通じた廉(かど)で、天正八年追放。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。



信長公記 (教育社新書―原本現代訳) 太田 牛一(著者),榊山 潤 (翻訳)
「信長公記」で読む信長の謎 小和田 哲男 (監修)
新三河物語 
実録!!新・戦国時代ミステリー99  
城門を潜って 斎藤 秀夫 (著)
身命を惜しまず―安藤帯刀と片倉小十郎 (徳間文庫) 津本 陽 (著)
人生の決断を導く歴史人物の格言 歴史街道編集部 (編集)
陣星、翔ける 宮本昌孝 (著)



天文二十三年(1554年)一月二十一日
信長は、弾正忠家の家臣団のほぼ全軍を率いて、すぐさま那古野城を出陣し、
叔父孫三郎信光とともに暴風雨の中を熱田から渡海して、知多半島西岸に進み、尾張緒川城救援へと向かう。



天文二十三年(1554年)一月二十三日
水野下野守信元の居城 尾張緒川城へ入城。



天文二十三年(1554年)一月二十四日
織田水野連合軍は、知多半島東岸の村木砦の攻撃を、辰刻(午前8時頃)から開始している。



信長公記によると、
「正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆楯籠り侯村木の城へ取り懸げ、攻めさせられ、北は節所手あきなり。

東は大手、西は搦手なり。

南は大堀霞むばかり、かめ程にほり上げ、丈夫も構へ侯、上総介信長、南のかた、攻めにくき所を御請取り侯て、御人数付けられ、

若武者ども、我劣らず、のぼり、撞き落とされては、叉あがり、手負死人其の数を知らず。」
とある。


東の大手から信元勢が、西の搦手(からめて)から信光勢が、
そして大堀のめぐらされた南から鉄砲隊を率いた信長勢が一気に攻め寄せた。

若武者達は、我先にと競い合う様に城壁をのぼるが突き落とされ、それでもなお這い上がり城壁をのぼり、
信長の号令の下、我も我もと堀に取り付いて攻め続けた。

砦を守る今川勢の守備は堅く、両軍共に死傷者は後を絶たず、かなりの激戦だった事が記されている。
信長はこの戦いで、初めて新兵器の鉄砲を実戦で使用している。


初めて見る鉄砲の威力と、いまだかって聞いたことのない大きな音に、今川勢は驚き、浮き足立ったところを、
六鹿椎左衛門が西の搦手門を打ち壊し、一番乗りをあげ、
織田孫三郎信光の騎馬五百騎が一気に砦内になだれ込み、砦の今川勢を降伏させた。

織田水野連合軍は、多大な犠牲を出しながらも夕刻に、砦の奪取に成功したのである。


戦国Check✓

織田 信光(おだ のぶみつ)
戦国時代の武将。通称は孫三郎、法名は梅岩または梅厳。
織田信秀の弟で、織田信長の叔父にあたる。
武勇に優れ、兄信秀に従い武功を挙げ、小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
信秀の死後は、家督を継いだ甥の信長をよく補佐した。

熱田(あつた)
尾張国愛知郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)辺りの地。

知多半島(ちたはんとう)
愛知県西部、名古屋市の南に突き出した半島。
西は伊勢湾、東は知多湾・三河湾で、南は伊良湖水道を通じて太平洋となる。

尾張緒川城(おわりおがわじょう)
尾張国知多郡小河(現在の愛知県知多郡東浦町緒川)にあった城。

村木砦(むらきとりで)
尾張国知多郡村木(現在の愛知県知多郡東浦町)にあった砦。
尾張侵攻を進める今川義元の命により、石川新左衛門率いる松平勢が、闇夜に村木の地に上陸して砦を構築。
緒川城の水野信元が気付いて兵を差し向けた時には、既に砦はほぼ完成しており、散々に撃退された。

大手(おおて)
城の正面。また、正門。

搦手(からめて)
城やとりでの裏門。陣地などの後ろ側。





次回 第五十九話 甚太郎衆 ⇒




CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ
スポンサーサイト

Category: 天文記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。