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存続、成長の為に必要な事

 【05//2014】

甚太郎衆


天文二十三年(1554年)一月二十四日
尾張緒川城主 水野下野守信元より、援軍要請を受けた織田上総介信長は、村木砦総攻撃を開始する。

村木砦攻城戦で、砦を守る今川勢として、比類無き働きをしたのが、甚太郎衆と呼ばれる、
松平甚太郎忠茂が率いた精鋭部隊であった。


戦国Check✓

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。

村木砦(むらきとりで)
尾張国知多郡村木(現在の愛知県知多郡東浦町)にあった砦。
尾張侵攻を進める今川義元の命により、石川新左衛門率いる松平勢が、闇夜に村木の地に上陸して砦を構築。
緒川城の水野信元が気付いて兵を差し向けた時には、既に砦はほぼ完成しており、散々に撃退された。

松平 忠茂(まつだいら ただしげ)
戦国時代の武将。通称は甚太郎。東条松平家第二代当主。
当主松平広忠が天文十八年に急死(暗殺死)して以降、松平宗家の今川氏への従属が強まり、
松平党への求心力が弱まったため、庶流の東条松平家当主である忠茂は、今川氏に直接帰属して下知を受けることになる。
そのため、他の有力松平分家としばしば対立し合戦に及んでいた。




忠茂は、東条松平家初代 松平右京亮義春(まつだいらうきょうのすけよしはる)の次男として生まれる。
父の松平義春は、天文年間、松平宗家と共に今川氏に服属していた。

しかし、松平宗家八代当主松平次郎三郎広忠が、
天文十八年(1549年)に暗殺されて以降、松平宗家の今川氏への従属が強まり、松平党への求心力が弱まったため、
庶流の松平家や有力家臣のなかには宗家と袂(たもと)を分かち、尾張の織田氏に味方するものや、
逆に今川氏に直接帰属して下知を受けるものが現れはじめた。

それは東条松平家も例外では無く、義春の死後、家督を継承した嫡男である兄の甚二郎忠吉は、
宗家と袂(たもと)を分かち、事も有ろうに織田氏に味方する姿勢を示した。
東条松平家の裏切りを知った今川治部大輔義元は、
天文二十年(1551年)
甚二郎忠吉の追放を決行し、次男 甚太郎忠茂を、東条松平家第二代当主として家督継承させたのである。

甚太郎忠茂が、織田、水野連合軍と対峙する最前線の激戦地に送られたのも、このような経緯からだと思われる。
事の経緯を理解していた忠茂と甚太郎衆は、織田、水野連合軍に対し一歩も引かぬ戦をし、内外にその名を轟かせた。


戦国Check✓

松平 義春(まつだいら よしはる)
戦国時代前期の武将。通称は甚太郎、甚九郎。官位は右京亮。三河青野城主。
三河松平宗家第五代松平長親の三男。東条松平家初代当主。
三河東条城第五代当主吉良義藤の嫡子 持清の後見人となったことから東条の名を冠したとされる。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

従属(じゅうぞく)
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

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精神科看護師、謀反―極私的「革命」レポート 越智 元篤 (著)
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この「甚太郎衆」という呼び名は、以降東条吉良家東条松平家出身の家臣団を指す呼び名として
定着し、後に徳川御三家の筆頭格にして、諸大名の中でも最高の家格を有した尾張徳川家家臣団を総称して、甚太郎衆と呼ぶようになった。

東条松平家は、三州十八松平家の一つで、徳川宗家の支柱として重宝されており、
第三代当主 甚太郎家忠に嗣子がいなかった際には、徳川家康は四男福松丸(忠吉)を養子に出し、
東条松平家を継承させている。

しかし、
慶長十二年(1607年)閏四月二十六日
忠吉にも嗣子が出来なかった為、家康は、九男五郎太丸(徳川義直)を清洲へ移し、
尾張徳川藩初代藩主として、東条松平家の領地と、その家臣団を継承させ、東条松平家を断絶させている。


戦国Check✓

吉良氏(きらし)
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、足利義氏の庶長子 吉良長氏を祖とする。
吉良氏は足利将軍家の連枝としての家格を有し、その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には、足利宗家の家督を継承することが許された。

徳川御三家(とくがわごさんけ)
江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家の三家のこと。
単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。
三家とも徳川家康の子息を初代とし、
尾張徳川家は、始祖:徳川義直(徳川家康九男)
紀伊徳川家は、始祖:徳川頼宣(徳川家康十男)
水戸徳川家は、始祖:徳川頼房(徳川家康十一男)
徳川の名乗りを許され、将軍家に嗣子の無い場合、これを継承する権利を持っていた。

尾張徳川家(おわりとくがわけ)
徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。「尾張家」、「尾州家」。
徳川家康の九男徳川義直を家祖とする。
徳川御三家中の筆頭格にして、諸大名の中でも最高の家格を有した。

十八松平(じゅうはちまつだいら)
松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。
家康の祖父 松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。
江戸時代の史料では「改正三河後風土記」の「三州十八松平家」に見られる。
「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、
十八という数は実数ではないとも指摘される。

松平 家忠(まつだいら いえただ)
戦国時代の武将。通称は甚太郎。東条松平家第三代当主。三河東条城主。
父松平忠茂の戦死にともない、松平家康に家督相続、所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりであったため、
伯父である家臣の松井忠次が後見となり、元服後もその補佐を受けた。
東条吉良氏との戦いで功績をあげ、三河東条城を領した。三河東条城主。

松平 忠吉(まつだいら ただよし)
安土桃山時代から江戸時代の武将。尊称は尾張左中将。官位は左近衛中将。東条松平家第四代当主。
徳川家康の四男として生まれるが、天正九年、東条松平家の松平家忠が病死すると、
その家督を継いで三河国東条城一万石を領した。
慶長五年、関ヶ原の戦いで舅の井伊直政の後見の下初陣を飾り、福島正則と先陣を争い、島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。
戦後、尾張国で清洲五十二万石を与えられ、尾張清洲城主となる。

徳川 義直(まつだいら よしなお)
江戸時代初期の大名。尊称は徳川右兵衛督、尾張大納言。官位は右兵衛督、参議、右中将権中納言、権大納言。
尾張藩初代藩主。尾張徳川家初代当主。
徳川家康の九男として生まれ、慶長八年一月、わずか三歳で甲斐二十五万石国を拝領し、甲斐甲府初代藩主となる。
慶長十二年四月、死去した兄の東条松平家第四代当主 松平忠吉の遺跡を継いで尾張清洲初代藩主となる。



徳川御三家は、
尾張徳川家(尾張家、尾張藩) - 始祖:徳川義直(徳川家康九男)
紀州徳川家(紀州家、紀州藩) - 始祖:徳川頼宣(徳川家康十男)
水戸徳川家(水戸家、水戸藩) - 始祖:徳川頼房(徳川家康十一男)から成り、
江戸時代において、徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた三家のことである。

親藩(一門)のうちで最高位にあり、徳川姓を名乗ることや、三つ葉葵の家紋使用が許されている。

江戸時代初期には、
徳川将軍家である徳川宗家に、尾張徳川家紀州徳川家を加えた三家を御三家と呼ぶこともあった。

また、尾張家、紀州家に、駿河徳川家を加えた三つの大納言家(水戸家は中納言家)を指して御三家という場合もある。
※水戸徳川家は尾張、紀州と較べるとやや家格が劣ると見られていたようである。

また、将軍家(徳川宗家)の分家としては、それ以外にも、三代将軍家光の子を分封した甲府徳川家及び、館林徳川家も、
石高・家格ともに御三家に匹敵する家として存在していた。

「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」
宗家の後嗣が絶えた時に備え、家康が宗家存続のために遺したシステムである。


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徳川御三卿(とくがわごさんきょう)
江戸時代において徳川氏の一族から分立した大名家。
田安徳川家(田安家)は、始祖 徳川宗武(第八代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家)、始祖 徳川宗尹(第八代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家)、始祖 徳川重好(第九代将軍徳川家重の次男)
徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担う。

三つ葉葵(みつばあおい)
日本の家紋「葵紋」の一種である。
通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」の紋を指すことが多い。



次回 第六十話 黒衣の宰相 ⇒




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