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武門に生まれたもの同士

 【05//2014】

黒衣の宰相

京都五山の建仁寺に、秀才として将来を嘱望(しょくぼう)されていた一人の修行僧がいた。
名を九英承菊という。

大永二年(1522年)
九英承菊の噂を聞いた、駿河国主今川治部大輔氏親は、五男方菊丸の養育係とするべく、
京都建仁寺に使者を出す。


戦国Check✓

建仁寺(けんにんじ)
現在 京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号は東山。
建仁二年、栄西禅師が建立した京都最初の禅寺。
天正十四年ごろ、安国寺恵瓊により再興され、五山第三位の格式を持った。
勅使門(重文)は、銅板葺、切妻造りの四脚門で、扉に矢痕があるところから矢の根門とも呼ばれる。
方丈(重文)は、銅板葺、単層入母屋造で、文禄年間に安芸の安国寺から移築した。
俵屋宗達作の風神雷神図(国宝)は有名。法堂天井には畳百八枚分の大双龍図がある。

嘱望(しょくぼう)
人の前途・将来に望みをかけること。期待すること。

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第七代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。



九英承菊(きゅうえいしょうぎく)
今川家譜代家臣 庵原左衛門尉政盛の子であったが、嫡子ではなかったため、
富士善得寺の舜琴渓(しゅんきんけい)に預けられ、僧となった。

やがて承菊は、京都五山の建仁寺に入り、常庵龍崇(じょうあんりゅうそう)という高僧のもとで修行する。

今川氏親の要請を受けた承菊は、未だ修行僧の身であることから、当初は断ったものの、
二度目の使者でついに承諾し、十八年間の修行を終え駿河国に帰国ることになった。

一説には、二度目の要請も断ったと伝えられている。
このとき承菊二十七歳、方菊丸四歳であった。
この巡り合わせは、後の今川家にとって大きな幸運であったといえる。


戦国Check✓

譜代(ふだい)
父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、
その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。
また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。

善得寺(ぜんとくじ)
駿河国富士郡瀬古(現在の静岡県富士市今泉)にあった臨済宗妙心寺派の禅寺。
貞治二年、下野国那須(現在の栃木県羽黒町)にあった雲巖寺の大勲策禅師が開山した寺といわれている。
戦国時代には駿東第一の大規模な寺院であったことがわかっており、また、地理的重要性から
城郭(善得寺城)も併設されていたと言われている。
しかし、永禄十二年、駿河国に侵攻した武田軍の手によって善得寺は焼失。その後
再建されることはなかった。

常庵龍崇(じょうあんりゅうそう)
京都建仁寺の正宗竜統(しょうじゅう りゅうとう)に師事し、その法をつぐ。
薩摩の大願寺、京都の真如寺を経て、建仁寺住持となる。



氏親は家督相続による争いの末に、名門である今川家が衰退することを恐れ、嫡男氏輝と、次男彦五郎だけを残し、
他の男子は仏門に入れていた。

三男である玄広恵探は駿河国花倉の遍照光寺に入り、

四男の象耳泉奘も幼少より仏門に入り、後に、山城国泉涌寺大和国唐招提寺などの住持を歴任する高僧となった。

五男の方菊丸も四歳にして九英承菊に付け出家させている。

六男の左馬助氏豊は、尾張今川氏を継がし、尾張那古野城主とするが、
織田弾正忠信秀の奇策によって城を奪い取られ、京へ落ち延びていく。


戦国Check✓

今川 氏輝(いまがわ うじてる)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は従五位下、上総介。駿河今川家第十代当主。
今川義元の兄。

今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は彦五郎。今川氏親の次男、今川義元の兄。
当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。

玄広 恵探(げんこう えたん)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は不詳。今川氏親の三男、今川義元の庶兄。
今川良真を名乗ったとする説もある。花倉遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持。
天文五年、今川家当主の氏輝とその次弟 彦五郎が相次いで急死したため、
氏親の正室であった寿桂尼の子 栴岳承芳が還俗して今川義元を名乗り、家督を継ごうとした。
これに反対して、玄広恵探は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、梅岳承芳派に攻められて自害した(花倉の乱)。

花倉(はなぐら)
駿河国志太郡葉梨荘花倉(現在の静岡県藤枝市花倉)辺りの地。

遍照光寺(へんじょうこうじ)
駿河国志太郡葉梨荘花倉(現在の静岡県藤枝市花倉)にあった真言宗泉涌寺派の末寺。山号は華蔵山。
延文元年、今川範氏が京都泉涌寺十二世朴文思惇を開山に遍照光寺を開創。
皇室とのゆかりの深い四宗兼学の真言律宗の寺とされ、今川家の氏寺として、
また一族家臣の子弟教育の場として、泉涌寺系住職によって法灯を続けられた。
しかし永禄十一年、武田氏の侵攻により、花倉城とともに灰塵に帰し、今川氏と共に滅亡することになる。

象耳 泉奘(しょうじ せんじょう)
戦国時代から安土桃山時代の僧侶。今川氏親の四男、今川義元の同母弟。今川義元の次男とする説もある。
幼少時から僧侶となり、後に、泉涌寺の長老となる。その後、唐招提寺の長老にもなる。
また、筒井氏の菩提寺である伝香寺の中興開山にもなった。

泉涌寺(せんにゅうじ)
山城国愛宕郡今熊野村(現在の京都市東山区泉涌寺山内)にあった真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山、泉山。
平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿である。
東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇、
以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。

唐招提寺(とうしょうだいじ)
大和国宇智郡五條村(現在の奈良県奈良市五条町)にあった南都六宗の一つ律宗の総本山。
「続日本紀」等によれば、唐招提寺は唐僧 鑑真が天平宝字三年、天武天皇第七皇子にあたる新田部親王の旧宅跡を
朝廷から譲り受け、寺としたものである。
寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、
「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。
つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。

今川 氏豊(いまがわ うじとよ)
戦国時代の武将。幼名は竹王丸。官位は左馬助。今川義元の実弟。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

おススメの本
戦国合戦史事典
戦国甲冑集―決定版 歴史群像シリーズ 伊沢 昭二(著)
戦国軍師人名事典
戦国激女100人伝 乱世を駆け抜けたすごい美女がいた
戦国幻想曲



九英承菊に付き従い出家した方菊丸は、駿河国の名刹(めいさつ)善得寺に入り修行の日々を送ることになる。

善得寺での修行の日々を送る中、方菊丸を高僧とするためには、より高い知識や教養が必要であると考えた承菊は、
方菊丸を伴い中央政権の最高学府である建仁寺や、妙心寺へ赴き、本格的な修行を行わせた。

妙心寺で修行の日々を送る方菊丸は、学識を深め、
得度(とくど)して栴岳承芳(せんがくしょうほう)という法号を名乗るようになっていった。

また、九英承菊も名を太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)と改めていた。


武門の道を捨て高僧となるための人生を歩むはずだったこの師弟の運命を変えるある事件が起こった。


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妙心寺(みょうしんじ)
山城国葛野郡花園村(現在の京都市右京区花園)にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号は正法山。
日本にある臨済宗寺院約六千寺のうち、約三千五百寺を妙心寺派で占める。
近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。
平安京範囲内で北西の十二町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。

得度(とくど)
仏教における僧侶となるための出家の儀式。
本来、僧侶になるには、仏教教団の十名の先輩構成員(三師七証)の承認があり、
戒律を護る事を誓えば誰にでもなれるものであったが、中国や日本に於いては、労働、納税、兵役を免除されていたため、
僧侶になる者が続出し、国家の財政を脅かす事態となった。
そこで国家は年度や地域毎に僧侶になる人数を制限するために、得度を国家の許可制とした。




次回 第六十一話 継承者の死 ⇒




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