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殿様の死と「偉大な後継者」

 【05//2014】

継承者の死


大永六年(1526年)六月二十三日
駿河国の戦国大名今川治部大輔氏親が没し、嫡男五郎氏輝が家督を継承する。

氏輝は、若干十四歳という若さであった為、生母寿桂尼(じゅけいに)が後見人として補佐することとなった。
寿桂尼は、女戦国大名尼御台(あまみだい)と呼ばれた程の人物であり、氏輝が十六歳になるまでの約二年間、
自身の印判を用いて公的文書を発給し、今川氏の政務を取り仕切ったと言われている。


戦国Check✓

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第七代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

今川 氏輝(いまがわ うじてる)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は従五位下、上総介。駿河今川家第十代当主。
今川義元の兄。

寿桂尼(じゅけいに)
戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)の母。
夫 氏親の死後、剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。
氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐した。


若き今川家当主五郎氏輝は、母の助けも有り、次第に領国経営を軌道に乗せ着実に勢力を広げて行った。
しかし、これに脅威を感じた甲斐国の戦国大名武田左京大夫信虎が、富士河沿いを南下し、
駿河国境である万沢口へと武力侵攻してきたのである。

信虎の駿河侵攻に危険を感じた氏輝は、同盟関係にあった相模国の北条左京大夫氏綱に援軍を要請。
この頃の今川家は、相駿同盟により北条家とは同盟関係にあった。
氏輝の援軍要請に、北条氏綱、氏康親子は、すぐさま今川氏救援のために出陣。

氏輝は、氏綱の援兵により、信虎の駿河侵攻を阻止することは出来たが、
反対に防備の手薄になった相模小田原城を、武蔵国の扇谷上杉家上杉修理大夫朝興
急襲するなど、群雄がひしめき合う関東は混乱していた。

群雄が割拠する関東において防備の強化を図る事が必要と考えた氏輝は、
弟の栴岳承芳(後の今川義元)を呼び寄せ、甲斐との国境に近い善得寺砦の守将を命じた。
武門の道を捨て、高僧となるための人生を歩み始めた栴岳承芳の前に、
過酷とも言える運命が降りかかる事になる。


戦国Check✓

甲斐国(かいのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は甲州(こうしゅう)。
領域はおおむね現在の山梨県にあたる。
山梨郡、八代郡、巨摩郡、津留郡の四郡から成る。

武田 信虎(たけだ のぶとら)
戦国時代の武将。法名は無人斎道有、官位は従五位下 左京大夫 陸奥守。幕府相伴衆、甲斐守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十八代当主。武田信玄の父。
乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名武田氏の基盤を築いた人物。

万沢口(まんざわぐち)
甲斐国巨摩郡万沢口(現在の山梨県南巨摩郡南部町富沢)辺りの地。

相模国(さがみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は相州(そうしゅう)。
領域はおおむね現在の神奈川県の北東部を除く大部分にあたる。
足上郡、足下郡、余綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、御浦郡の八郡から成る。

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は左京大夫。後北条家第二代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。

北条 氏康(ほうじょう うじやす)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は相模守、左京大夫。後北条家第三代当主。
関東から山内、扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏、今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、
上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。

相模小田原城(さがみおだわらじょう)
相模国足柄下郡小田原(現在の神奈川県小田原市)にあった城。

武蔵国(むさしのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は武州(ぶしゅう)。
領域はおおむね現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部にあたる。
久良郡、都筑郡、多麻郡、橘樹郡、荏原郡、豊島郡、足立郡、新座郡、入間郡
高麗郡、比企郡、横見郡、埼玉郡、大里郡、男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、那珂郡
児玉郡、加美郡、秩父郡の二十一郡から成る。

上杉 朝興(うえすぎ ともおき)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は修理大夫。扇谷上杉家第十二代当主。
伯父朝良の隠退により扇谷家の当主となる。
伊勢宗瑞(北条早雲)によって相模を奪われ、大永4(1524)年にはその子北条氏綱にも武蔵江戸城を奪われた。
武蔵河越・松山を拠点としつつ相模方面に攻め込み旧領の回復を図るが、成功をみないまま死去した。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

駿河善得寺砦(するがぜんとくじとりで)
駿河国富士郡瀬古(現在の静岡県富士市今泉)にあった砦。


おススメの本
戦国金言手帳
戦国最強軍団真田六文銭合戦記
戦国時代の舞台裏 
「戦国時代は裏から読むとおもしろい!」
戦国人物伝 織田信長
戦国人物伝 徳川家康 
戦国大名106家 最強の系図 小和田 哲男 (著)
戦国大名の通知表 八幡 和郎 (監修)
戦国の「いい男」「ダメ男」
戦国の雄と末裔たち



当主と後継者の謎の死

天文五年(1536年)三月十七日
今川上総介氏輝死去 享年二十四歳であった。

更に奇怪なことに、同日、次男の彦五郎も死去している。
氏輝には嗣子がいなかった為、三男である玄広恵探と、五男の栴岳承芳との間で、
父氏親が懸念し恐れた今川家を二分する家督相続が勃発する。

同時に二人の継承者を失うような事が果たしてあるのだろうか。
玄広恵探、あるいは栴岳承芳のどちらかが、暗殺した可能性が極めて高いのではないか。
と考えてしまいがちだが、この亡くなった二人の継承者には諸説がある。



二人の継承者の謎

彦五郎と言う名は、今川家当主が代々世襲した仮名である。
嫡子氏輝の弟がなぜ、嫡子の仮名である彦五郎を名乗っていたのか。



氏輝と彦五郎は同一人物説

彦五郎とは、氏輝の事を指しており、同一人物であるとする説である。
したがって、氏輝の死んだ日に、彦五郎も死んだ、という事はあたりまえであり、
死んだ日が同じという事も、あたりまえという事になる。



氏輝の子供説

彦五郎は、氏輝の嫡子であり、何らかの要因で、同じ日に死んだと言う説である。

また、死因についても色々と諸説があり、
暗殺説、病死説、呪詛説、自殺説など色々とあり、真意の程は解らないという。




家督継承権があるのは、玄広恵探と、栴岳承芳の二人であったが、
玄広恵探は妾腹であったため、正室寿桂尼の子供であった栴岳承芳が、家督継承者としてもっともふさわしい存在とされ、
将軍足利義晴に、栴岳承芳への家督相続承認の申請が出された。

しかし、それに不満を持った玄広恵探派が挙兵
今川家を二分する争いに発展してしまうのである。


戦国Check✓

今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は彦五郎。今川氏親の次男、今川義元の兄。
当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。

玄広 恵探(げんこう えたん)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は不詳。今川氏親の三男、今川義元の庶兄。
今川良真を名乗ったとする説もある。花倉遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持。
天文五年、今川家当主の氏輝とその次弟 彦五郎が相次いで急死したため、
氏親の正室であった寿桂尼の子 栴岳承芳が還俗して今川義元を名乗り、家督を継ごうとした。
これに反対して、玄広恵探は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、梅岳承芳派に攻められて自害した(花倉の乱)。

仮名(けみょう)
中国や日本などでは、人間の実名にあたる諱をもって自他を呼称することを避ける避諱の風習があったため、
便宜的に用いた通称のこと。

妾腹(しょうふく、めかけばら)
結婚している男性が、妻以外の女性=妾(めかけ)に産ませた子供。

足利 義晴(あしかが よしはる)
室町時代後期の武将。幼名は亀王丸。官位は左馬頭、参議、左近衛中将、権大納言、右近衛大将。
室町幕府第十二代征夷大将軍。
失墜していた幕府の権威の回復と、払底状態であった財政の建て直しを図るために、
自分の名前を辺りの大名に手当たり次第に売却したことで有名なことから「売名将軍」と呼ばれている。


次回 第六十二話 花倉の乱 ⇒




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