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天下に最も近かった男

 【05//2014】

花倉の乱

駿河今川家には、今川の双璧として君臨する重臣朝比奈家福嶋家という二大勢力がある。

今川治部大輔氏親の三男玄広恵探(げんこうえたん)は、重臣 福嶋越前守正成の娘が産んだ子であり、庶子として扱われていた。

天文五年(1536年)三月十七日
氏親の跡を継いだ、今川上総介氏輝が二十四歳という若さでこの世を去った。
更に奇怪なことに、王位継承権第一位であった、氏親の次男彦五郎も、同日死去している。
相次ぐ継承者の死で、今川家は大混乱を迎えた。

王位継承(おういけいしょう)
世襲君主制
継承をめぐる紛争を防ぐため、代々君主を世襲する、世襲君主制を定める事が一般的である。
順位は、一般的に長子相続であるとされ、君主の嫡男が王位継承権第一位とされ、
嫡孫(嫡男の嫡男)が、第二位となる。
君主の嫡男に子がいない場合は、君主の次男が第二位となる。

また、継承権は正室の子にのみ与えられたが、正室に子がいない場合、側室の子を正室の養子として継承させたり、
側室を正室に格上げして継承させるというケースもある。


戦国Check✓

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第九代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

玄広 恵探(げんこう えたん)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は不詳。今川氏親の三男、今川義元の庶兄。
今川良真を名乗ったとする説もある。花倉遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持。
天文五年、今川家当主の氏輝とその次弟 彦五郎が相次いで急死したため、
氏親の正室であった寿桂尼の子 栴岳承芳が還俗して今川義元を名乗り、家督を継ごうとした。
これに反対して、玄広恵探は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、梅岳承芳派に攻められて自害した(花倉の乱)。

福嶋 正成(くしま まさしげ)
戦国時代の武将。通称は兵庫、上総介。官位は越前守。遠江土方城城主。
花倉の乱で他の福島一門とともに玄広恵探を擁立。
その後、福島氏は恵探の弟・栴岳承芳と駿府で合戦に及ぶが、敗れて久能山に退却。
以後の消息は明らかでない。

今川 氏輝(いまがわ うじてる)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は従五位下、上総介。駿河今川家第十代当主。
今川義元の兄。

今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は彦五郎。今川氏親の次男、今川義元の兄。
当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。


おススメの本
戦国の女たちを歩く
戦国の活力 (全集 日本の歴史 8) 山田 邦明 (著)
戦国業師列伝
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「戦国武将」がよくわかる本 猛将・婆娑羅(ばさら)武将編 株式会社レッカ社 (著)
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駿河今川家を二分する争い
天文五年(1536年)六月十日
今川氏親の正室 寿桂尼(じゅけいに)の子、栴岳承芳(せんがくしょうほう)を次期当主に推す、朝比奈備中守泰能ら栴岳承芳派と、側室の子、玄広恵探(げんこうえたん)を次期当主に推す、福嶋越前守正成ら玄広恵探派が、
駿河今川家次期当主の座を巡り対立することになる。

恵探派が挙兵した事を知った寿桂尼は、福嶋家の屋敷を訪れ、幕府からの家督認証の書状を示し、事態の収拾を図ろうとするが、福嶋正成はその書状を取り上げ、そのまま寿桂尼を抑留(よくりゅう)したのである。
福嶋家への説得工作が失敗に終わり、寿桂尼まで拘束(人質)されてしまった朝比奈泰能らは、
戦は避けられないと開戦を決意するのである。

戦国Check✓

寿桂尼(じゅけいに)
戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)の母。
夫 氏親の死後、剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。
氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐した。

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は左京亮、備中守。駿河今川家臣。遠江掛川城主。
駿河今川家重臣筆頭とされ、父朝比奈泰熙の死後、伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江掛川城主となる。
小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣し、尾張織田氏に大勝するなどの活躍を見せるが、
桶狭間の合戦前に没したと思われる。



花蔵生害
駿河方ノ上城(かたのかみじょう)で籠城策を採る玄広恵探派は、栴岳承芳派 岡部左京進親綱の執拗な攻撃に耐え切れず、
城を捨て、駿河花倉城(はなくらじょう)へ撤退。
方ノ上城を陥落させた親綱ら栴岳承芳派は、玄広恵探派への追撃の手を緩めず、そのまま花倉城を取り囲んだ。

天文五年(1536年)六月十四日
花倉城を包囲され、敗戦が色濃くなって来た事を悟った玄広恵探は、共廻りの兵のみを連れ城を抜け出すが、
栴岳承芳の追撃の手は厳しく、「もはやこれまで」と玄広恵探は瀬戸谷(せとのや)の普門寺で自刃して果てた。
世に言う花倉の乱である。

正成の遺児
余談であるが、駿河今川家を二分する争いを引き起こした福嶋越前守正成は、その後甲斐国に逃れ、
そこで討ち取られたとする説と、甲斐ではなく相模国へ逃れ、相模北条家に仕えたという説である。
相模小田原へ落ち延びた福嶋正成は、北条左京大夫氏綱に仕えた。

また、
北条五色備えで地黄八幡の猛将として黄備えを率いた北条左衛門大夫綱成は、この福島正成の遺児とも言われている。
正成の死後、その遺児は、北条氏綱の寵愛を受け、北条一門に迎えられるとともに、北条姓を与えられている。
綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱である「綱」の字と父・正成の「成」を合わせたものとされている。


戦国Check✓

駿河方ノ上城(するがかたのかみじょう)
駿河国志太郡(現在の静岡県焼津市方ノ上字石合山)にあった城。

籠城(ろうじょう)
城にこもり敵と戦うこと。敵陣包囲の中、味方が劣勢の場合の重要な戦術。
籠城により敵を攻略するには、何よりも食糧、水などの生活物資の確保が先決であり、
加えて矢、火薬、石などの戦闘用具の準備も必要となる。

岡部 親綱(おかべ ちかつな)
戦国時代の武将。通称は左京進。今川家重臣。
今川氏輝の側近であった親綱は、花倉の乱で駿河方上城を攻め落とし、今川義元の家督相続に大いに貢献した。

駿河花倉城(するがはなくらじょう)
駿河国志太郡(現在の静岡県藤枝市花倉)にあった城。

相模国(さがみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は相州(そうしゅう)。
領域はおおむね現在の神奈川県の北東部を除く大部分にあたる。
足上郡、足下郡、余綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、御浦郡の八郡から成る。

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は左京大夫。後北条家第二代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
後北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。
別名は「福島綱成」。


天下に最も近かった男
勝利を収めた栴岳承芳は、駿河国府中(駿府)今川館(駿府城)に入り、
将軍 足利義晴(あしかがよしはる)から偏偉(へんき)を賜り、
環俗(げんぞく)して駿河今川家第十一代当主 今川五郎義元(いまがわごろうよしもと)と名乗りを改めた。

ここから今川義元と黒衣の宰相(こくいのさいしょう)太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)との二人三脚による快進撃が始まる。
義元は、領国経営や軍事方面で天才的な手腕を振るい、いつしか東海一の弓取りとまで讃えられ、
武名が全国に鳴り響く戦国大名へと成長していく。

駿河今川家当主となった義元は、
「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われた名門
吉良家を傘下に治め、太原崇孚雪斎を軍師として、三河国を奪い取り、尾張国への領土拡大策を着々と進め、
副将軍的な立場から上洛を目指すまでになるのである。

桶狭間の戦いでの敗北で誤解されがちだが、戦国期最大勢力を誇った駿河今川家が最も天下に近かったことは事実である。

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駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

駿河駿府城(するがすんぷじょう)
駿河国安部郡(現在の静岡県静岡市葵区)にあった城。
別名は府中城、静岡城、今川館、府中館。

足利 義晴(あしかが よしはる)
室町時代後期の武将。幼名は亀王丸。官位は左馬頭、参議、左近衛中将、権大納言、右近衛大将。
室町幕府第十二代征夷大将軍。
失墜していた幕府の権威の回復と、払底状態であった財政の建て直しを図るために、
自分の名前を辺りの大名に手当たり次第に売却したことで有名なことから「売名将軍」と呼ばれている。

還俗(げんぞく)
僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。「復飾」(ふくしょく)とも。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。



次回 第六十三話 誤った甲駿同盟 ⇒




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