2017 09 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 11

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

恩を仇で返す国 と愚か者

 【05//2014】

誤った甲駿同盟


覇権への布石 甲駿同盟締結と駿相同盟の破綻

駿河今川家第十一代当主となった、今川治部大輔義元は、
先々代である、今川治部大輔氏親の代から敵対してきた、甲斐武田家と同盟を結ぶことになる。

しかし、この甲駿同盟の締結は、駿相同盟を破綻させる結果となってしまった。

以後、駿河今川家相模北条家との間で、長く抗争が行われることになる。



天文六年(1537年)二月十日

「天文六丁酉(中略) 此年二月十日当国御屋形御息女様駿河屋形ノ御上ニナホリ被食候。(後略)」

義元は、武田左京大夫信虎の娘 定恵院(じょうけいいん)を正室として迎えている。
義元十八歳・定恵院十八歳であった。

翌年、定恵院は、嫡男龍王丸を出産する。
後の、今川彦五郎氏真である。
その翌年には、娘の嶺松院(れいしょういん)を出産している。
嶺松院は、後に甲駿同盟の継続維持強化のため、武田信玄の嫡男武田太郎義信に嫁ぐことになる。

戦国Check✓

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第七代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

武田 信虎(たけだ のぶとら)
戦国時代の武将。法名は無人斎道有、官位は従五位下 左京大夫 陸奥守。幕府相伴衆、甲斐守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十八代当主。武田信玄の父。
乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名武田氏の基盤を築いた人物。

定恵院(じょうけいいん)
戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川義元の正室。今川氏真、嶺松院(武田義信室)の母。
武田信虎の長女として生まれ、武田信玄の同母姉にあたる。
駿河今川家との同盟強化のため、今川義元に嫁ぐ。

武田 義信(たけだよしのぶ)
戦国時代の武将。甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十九代当主 武田信玄の嫡男。
世継ぎとして将来を期待されるが、父信玄と不和となり、謀反の嫌疑をかけられて投獄され、
永禄十年十月十九日自刃。




親子二代の家督継承に貢献したのは北条家であった。

駿河今川家と甲斐武田家とのこの甲駿同盟に激怒したのが、相模小田原の北条左京大夫氏綱であった。

北条家は、初代伊勢新九郎盛時の代から、今川家とは縁戚関係にあり、先代今川上総介氏輝とも良好な関係を築き、
義元自身の家督相続を巡る花倉の乱では、義元を支持し、義元とも良好な関係を続けてきた。

その今川家が、北条家の長年の宿敵甲斐武田家と、婚姻し同盟を結んだのである。
それは、今川家の外交政策を、180度転換するものであった。
今川家のとった外交政策は、扇谷上杉家や、甲斐武田家の相模国侵攻を、後押しするかのような外交政策であった。



北条家初代 伊勢新九郎盛時とは、戦国の魁として名を馳せた北条早雲の事である。
盛時は、室町幕府政所執事役 伊勢氏の一族で備中荏原荘を治めていた備中伊勢氏の出身とされている。
※政所は、幕府の財政と領地・民事に関わる訴訟を司る役所で、執事はその長官。

今川家と北条家との関係は義元の祖父の代までさかのぼる事になる。
応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱の際、駿河守護職として上洛し、東軍に加わった今川治部大輔義忠
将軍足利義政への申次役を務めたのが盛時の父伊勢備中守盛定であった。

その時の縁により、盛時の姉である北川殿が今川義忠へ嫁ぎ、今川家と北条家は縁戚関係となった。

しかし、文明八年(1476年)に起こった遠江国塩売坂の戦いで今川義忠が討ち死にした事により、
今川家は義忠の嫡男龍王丸と、義忠の従兄弟である小鹿新五郎範満とを擁立する勢力で家中が二分される
家督争いが起こった。

この家督争いに小鹿範満派であった堀越公方と扇谷上杉氏が介入した為、

長享元年(1487年)

甥の龍王丸の家督継承を磐石なものにする為に駿河国へ下った盛時は、
駿河今川館を襲撃し、小鹿範満とその弟小鹿孫五郎を討伐した。

盛時によって家督争いに勝利した龍王丸は、駿河今川館に入り、元服して今川彦五郎氏親と名乗りを改め、
駿河今川家第九代当主となった。

氏親の家督争いに貢献した盛時は、伊豆国との国境に近い駿河興国寺城富士郡上方荘の所領を与えられ、
駿河守護代の地位を得た。

この駿河興国寺城こそ、伊豆国進出の足がかりとなった伊勢新九郎盛時旗揚げの城である。

その後、盛時は内紛していた堀越公方の伊豆国を平定し、
さらに分裂していた関東管領上杉家古河公方を一掃し、相模国を手中におさめた。

また領国経営にも手腕を発揮し、盛時が先駆けて行った領国経営は、関東八州、五第百年にわたる北条家の繁栄を築くとともに、後の戦国大名の模範とされた。

ちなみに盛時自身は、一度も北条を名乗ったことはなく、伊勢新九郎で通し、出家して早雲庵宗瑞と号している。
北条姓を名乗ったのは息子の氏綱の代からである。


戦国Check✓

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は左京大夫。後北条家第二代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。

今川 氏輝(いまがわ うじてる)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は従五位下、上総介。駿河今川家第十代当主。
今川義元の兄。

花倉の乱(はなくらのらん)
戦国時代の天文五年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名 今川氏のお家騒動。

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

伊勢氏(いせし)
桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、
武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。

備中荏原荘(びっちゅうえばら)
備中国小田郡荏原荘(現在の岡山県井原市)辺りの地。

応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

今川 義忠(いまがわ よしただ)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従五位下、上総介、治部大輔。駿河今川家第八代当主。
今川義元の祖父。

足利 義政(あしかが よしまさ)
室町時代中期から戦国時代初期の武将。幼名は三寅、三春。官位は右馬寮御監、内大臣、右近衛大将、左大臣、贈太政大臣。
室町幕府第八代征夷大将軍。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎み、幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、
自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

伊勢 盛定(いせ もりさだ)
室町時代中後期の武将。通称は新左衛門尉。官位は備中守・備前守。室町幕府申次衆、奉公衆。
北条早雲/伊勢新九郎の父。

小鹿 範満(おしか のりみつ)
室町時代中後期の武将。通称は新五郎。
今川氏の庶家にあたる小鹿範頼と堀越公方の執事・上杉政憲(関東管領上杉氏の一族)の娘との間に生まれた。
『今川記』は範満を「武勇に優れたり」と評している。

堀越公方(ほりこしくぼう)
室町時代に関東で勢力を持った公方の一つ。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。
『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。
『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。

伊豆国(いずのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。別称は豆州(ずしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県伊豆半島と伊豆諸島にあたる。
那賀郡、賀茂郡、君沢郡、田方郡の四郡から成る。

駿河興国寺城(するがこうこくじじょう)
駿河国駿河郡(現在の静岡県沼津市根古屋)にあった城。

富士郡上方荘(かみかた)
駿河国富士郡上方荘(現在の静岡県富士宮市上条・下条・精進川一帯)辺りの地。

関東管領上杉家(かんとうかんれいうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)が代々世襲した
鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。
当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

相模国(さがみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は相州(そうしゅう)。
領域はおおむね現在の神奈川県の北東部を除く大部分にあたる。
足上郡、足下郡、余綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、御浦郡の八郡から成る。

関東八州(かんとうはっしゅう)
関東八か国の総称。相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・
下野(しもつけ)の八か国。関八州。


おススメの本
戦国武将 勝利の実学 火坂 雅志 (著)
戦国武将 起死回生の逆転戦術 榎本 秋 (著)
戦国武将の意外な関係 加賀 康之 (著)
戦国武将のゴシップ記事 (PHP新書) 鈴木 眞哉 (著)
戦国武将の死亡診断書 酒井シヅ (監修)



今川義元は、なぜ武田信虎と同盟を結んだのか。

三河国に強い関心を抱いていた今川治部大輔義元は、武田左京大夫信虎と同盟する事によって、
三河国に本格的に侵攻できるものと考えていた。

義元は、相模北条家と決別するつもりなどさらさらなく、北条家との同盟を保ちながら、武田家とも婚姻を結び、
後顧の憂い(こうこのうれい)を断ったうえで、三河侵攻に集中したかったのである。

この頃隣国三河では、稀代の英雄松平二郎三郎清康(まつだいらじろうさぶろうきよやす)が、
尾張守山布陣中に家臣に討たれ、その後の同族間での家督争いで国内は乱れていた。

義元にとっては、三河侵攻への絶好のチャンスであった。




次回 第六十四話 河東一乱 ⇒



CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ
スポンサーサイト

Category: 天文記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。