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鋭さを欠いた敗戦を悔やむ指揮官

 【05//2014】

河東一乱


天文六年(1537年)二月二十六日

北条左京大夫氏綱 は、今川治部大輔義元武田左京大夫信虎の間に、婚姻関係が結ばれたことを契機に、駿河国に侵攻し、富士川を越え、興津(おきつ)まで進軍し、街を放火している。

義元の、なめた外交政策に対し、氏綱の怒りは爆発である。

そして、富士川以東の河東地域に一斉に禁制を発し、自ら兵を率いて河東地域に侵攻を開始する。

河東一乱(かとういちらん)の勃発である。

戦国Check✓

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は左京大夫。後北条家第二代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

武田 信虎(たけだ のぶとら)
戦国時代の武将。法名は無人斎道有、官位は従五位下 左京大夫 陸奥守。幕府相伴衆、甲斐守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十八代当主。武田信玄の父。
乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名武田氏の基盤を築いた人物。

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

興津(おきつ)
駿河国庵原郡興津(現在の静岡県清水市興津町)辺りの地。



千載一遇のチャンス

勝山記(妙法寺記)によると、

「此年弐月十日当国ノ屋形様ノ御息女様駿河ノ屋形様ノ御上ニナヲリ被食候、去程ニ相模ノ氏縄色々ノサマタケヲ被食候へ共、
成リ不申候て、ツイニハ弓矢ニ成候て、駿河国ヲヲキツマテ焼キ被食候、」
とある。

天文六年(1537年)二月十日

当国(甲斐国)の武田信虎の御息女が、駿河国の今川義元の妻となられた。
その際に相模国の北条氏綱は、色々妨害を行ったが成功せず、ついには戦争となり、駿河国を興津まで焼払っている。

北条左京大夫氏綱にとって、義元のこの裏切りとも取れる外交政策は千載一遇のチャンスであった。

北条氏の始祖である伊勢新九郎盛時は、駿河今川氏の属将として駿河国富士郡上方荘に所領を得た。
その後も今川氏の属将という地位に在りながら勢力を拡張させてきたという経緯から、未だ「今川の風下」ともいうべき関係から北条氏は完全に脱しきれていなかったのである。

名目的には今川氏の風下ともいうべき位置にあった北条氏が独立へと向けて動き出すには、義元が家督を相続してまだ間もなく、家中において自身の権威を確立できていなかったこの時期しか無かったのである。
義元が駿河国全域を完全に掌握する前に行動に移す必要があった。

戦国Check✓

勝山記(妙法寺記)(かつやまき・みょうほうじき)
甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした年代記。編著者は不明。
山梨県富士河口湖町勝山の富士御室浅間神社伝の古記録で、564-1559年の約1千年間における富士北ろくの農民の暮らしや戦国大名の外交、雪代や地震、火山などの気象現象について記載がある。

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。

富士郡上方荘(かみかた)
駿河国富士郡上方荘(現在の静岡県富士宮市上条・下条・精進川一帯)辺りの地。


駿河今川家からの完全なる独立の大義名分を得た氏綱は、河東地域への侵攻を開始する。
河東地域の富士川以東の富士郡、駿河郡は、氏綱の父である伊勢新九郎盛時が今川氏に属していた頃に領した地域であること、また駿河郡北部には氏綱の弟である葛山中務少輔氏広が勢力を張っていたことなどから北条氏の影響が強い地域であった。


また氏綱は、河東侵攻の事前に、花倉の乱で、玄広恵探を擁立した、遠江見付端城の堀越氏
遠江井伊谷城の井伊氏など、遠江の各武将たちと手を結び、義元を挟み撃ちにする作戦に出た。

戦国Check✓

葛山 氏広(かつらやま うじひろ)
戦国時代の武将。官位は中務少輔。駿河東部の国人領主。伊勢氏一門衆。伊勢宗瑞(北条早雲)の三男。
葛山氏は今川氏に従属しており、氏広も駿府に屋敷を構え今川氏に出仕していたが長兄氏綱と今川義元が争った河東一乱の際には氏綱側に味方している。

花倉の乱(はなくらのらん)
戦国時代の天文五年(1536年)に起きた、駿河国の守護大名、戦国大名でもある今川氏のお家騒動。
「花倉」とは、静岡県藤枝市の地名で、玄広恵探らが挙兵した地にちなむ、あるいは恵探は「花蔵殿」と呼ばれていたからとも云われる。嫡流の栴岳承芳(今川義元)らが勝利し終結。

玄広 恵探(げんこう えたん)
戦国時代の武将。諱は不詳、通称は不詳。今川氏親の三男、今川義元の庶兄。
今川良真を名乗ったとする説もある。花倉遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持。
天文五年、今川家当主の氏輝とその次弟 彦五郎が相次いで急死したため、
氏親の正室であった寿桂尼の子 栴岳承芳が還俗して今川義元を名乗り、家督を継ごうとした。
これに反対して、玄広恵探は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、梅岳承芳派に攻められて自害した(花倉の乱)。

遠江見付端城(とおとうみみつけはじょう)
遠江国磐田郡見付(現在の静岡県磐田市見付字古城)にあった城。

堀越氏(ほりこしし)
清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、今川貞世(了俊)の末裔である。
当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる。

遠江井伊谷城(とおとうみいいのやじょう)
遠江国引佐郡井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)にあった城。

井伊氏(いいし)
藤原北家の流れをくむとも、継体天皇の子三国氏を祖とするともされる井伊共資(いい ともやす)が遠江国敷智郡村櫛に住し、その子共保が遠江国引佐郡井伊谷に土着し井伊氏を称したのが始まりだという。井伊の姓はこの本貫地井伊谷の地名に由来している。
 

松平奥平家古文書写によると、

「遠州本意之上、於彼国五百貫文之地可進置候、然者井伊与有御談合、早々御行簡要候、巨細使者可被申候、恐々謹言」

遠江国を平定の上、同国において五百貫文の土地を与えること。
ついては、井伊氏と協力し、早急の軍事行動をすることが簡要であること。子細は使者が申すこと。



これは、奥平九八郎貞勝に宛てた北条氏綱の書状の一部抜粋である。
これにより義元は、東西の敵と戦う事になり、戦力が分散し、結果、興津辺りまで、氏綱の侵攻を許してしまうことになった。

同盟を結んだばかりの武田信虎も、須走口まで援軍として出陣するが力及ばず、
河東地域は北条氏綱によって占領されてしまう。
当主になったばかりの義元にとっては、痛恨の敗戦であった。


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奥平 貞勝(おくだいら さだかつ)
戦国時代の武将。通称は九八郎、監物。三河作手国人奥平氏当主。
今川氏、松平氏、織田氏、武田氏など、状況に応じてさまざまな陣営を渡り歩いた。
家名を存続させるため、身内同士で争うなど一族に多くの犠牲を強いられる苦難の人生を送りながらも、自身は天寿を全うした。

須走口(すばしり)
駿河国駿河郡須走口(現在の静岡県駿東郡小山町)辺りの地。




次回 第六十五話 領国経営 ⇒



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