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「国を守り領民を安んずる」こと ...

 【05//2014】

甲斐追放


甲斐源氏武田家
武田家は武門の家柄として抜群の家名を誇っていた。

平治元年(1159年) 平治の乱平清盛に敗れ、伊豆国の蛭ケ小島に流罪となった源頼朝が、
治承四年(1180年) 以仁王平氏追討の令旨(りょうじ)を発したことを契機に源氏の棟梁として
源氏再興の挙兵を決意した。

その際富士川の戦場に馳せ参じた武田太郎信義が武田家のルーツとされている。
家格で言えば、足利将軍家にも引けをとらない名族である。

また、武田家一門は、安芸国や若狭国をはじめとする各地の守護職など、幕府の要職に任じられており、
その分流諸派の中にあって、抜群の家名を誇っていたのが武田家一門の宗家である甲斐源氏武田家なのである。




戦国Check✓

平治の乱(へいじのらん)
平治元年(1159年)に起こった内乱。
保元(ほうげん)の乱の後、後白河法皇をめぐって藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と、
信頼は源義朝と結んで対立した院近臣や武士のあいだで起こった権力闘争。

平 清盛(たいら の きよもり)
平安時代末期の平氏の棟梁。別名は平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道。官位は従一位、太政大臣。
伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡男。
白河法皇の落胤で、母は祇園女御またはその妹という説もある。
平治の乱で源氏の勢力を一掃し、後白河上皇や二条天皇の信任を得て、仁安二年 従一位太政大臣となる。
娘の徳子を高倉天皇の中宮とするなど平氏一門で官職を独占するが、鹿ケ谷事件を契機に後白河法皇との対立が深まり、
治承三年 法皇を幽閉し、政権を完全掌握する。
しかし平氏に対する貴族、寺社、武士の不満は強まり、以仁王が平氏討伐の挙兵を起こし、これに源氏が加わり全国的な内乱へと展開した源平の争乱が勃発し、武家政権を成立させた平家は滅亡することになる。

伊豆蛭ケ小島(いずひるがこじま)
伊豆国那賀郡蛭ケ小島(現在の静岡県伊豆の国市四日町字蛭ヶ島)辺りの地。

源 頼朝(みなもと の よりとも)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
幼名は鬼武者・鬼武丸。通称は正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍。
源義朝の三男。母は熱田大宮司季範の娘。妻は北条政子。
平治の乱後の処分で、伊豆蛭ケ小島に配流。治承四年(1180)平氏打倒の兵をあげ、
石橋山で大敗するが安房にのがれて勢力を拡大。鎌倉を本拠として東国を支配する。
さらに源義仲、平氏,奥州藤原氏を滅亡させて建久三年征夷大将軍となり、わが国初の武家政権を樹立した。

以仁王(もちひとおう)
平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。
皇位継承の有力候補とみられたが、弟(のちの高倉天皇)の母 平滋子の妨害によって親王になれなかった。
治承四年(1180年)源頼政のすすめで平氏討伐の令旨(りょうじ)を諸国源氏に下して挙兵したが、平氏の追撃で戦死。

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)
治承四年(1180年)十月二十日に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、鎌倉に入る。
一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。
その両者が駿河国で合流し、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は
甲斐・駿河・遠江での割拠を確立させた。

武田 信義(たけだ のぶよし)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。幼名は龍光丸・勝千代。官位は遠江守。駿河守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第四代当主。
治承四年(1180年)以仁王の令旨に応じて甲斐源氏の中心となり挙兵。
富士川の戦で平維盛を敗走させ、源頼朝から駿河の守護に補任され重用されるが、
養和元年(1181年)後白河法皇が頼朝追討の下文を与えたとの疑いにより地位が低下。
元暦元年(1184年)子の忠頼が頼朝に謀殺され、失意の中で死去。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。




天文十年(1541年) 五月十三日

甲斐国主 武田左京大夫信虎が、
諏訪刑部大輔頼重村上左近衛少将義清ら信濃衆と協力して信濃小県郡に侵攻

小県を領する海野宗家 海野信濃守棟綱ら滋野一族(海野氏、禰津氏、望月氏など)は
海野平の戦いで奮戦するものの敗北してしまう。

諏訪氏と縁戚であった禰津氏・望月氏は降伏し滅亡を免れているが、降伏を許されなかった海野氏は
上野羽根尾城主 羽尾治部少輔幸全を頼って上野国吾妻郡羽尾郷へと逃れ、
関東管領 上杉兵部少輔憲政に救援を求めた。


戦国Check✓

諏訪 頼重(すわ よりしげ)
戦国時代の武将。幼名は宮増丸。官位は刑部大輔。安芸守。諏訪家第十九代当主。
諏訪氏は所領を接する武田氏と抗争を繰り返してきたが、武田信虎の三女・禰々を娶り、婚姻関係を結ぶ。
武田、村上らと連携して小県郡に侵攻し海野平を攻め取るが、関東管領上杉家の侵攻を受けると上杉と単独講和し、
所領を分割している。
この盟約違反を理由に武田家による諏訪侵攻が開始され、天文十一年(1542年)七月二一日幽閉された後に自刃している。

村上 義清(むらかみ よしきよ)
戦国時代の武将。幼名は武王丸。官位は右京権亮、佐渡守、左衛門尉、左衛門佐、周防守、左馬頭、信濃守、兵部大輔、
左近衛少将。信濃葛尾城主。
武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など
信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。
実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。

信濃小県郡(しなのちいさがたぐん)
信濃国小県郡(現在の長野県東信地方)上田市、東御市の一部、小諸市の一部辺りの地。

上野羽根尾城(うえのはねおじょう)
上野国吾妻郡羽根尾(現在の 群馬県吾妻郡長野原町羽根尾)にあった城。

関東管領上杉家(かんとうかんれいうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)が代々世襲した
鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。
当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は兵部少輔。山内上杉家第十五代当主。第二十二代関東管領。
関東管領として関東主要国の広範囲に権限を持ち、扇谷上杉家、駿河今川家と結んで関東中心部へと勢力を拡大していく
相模北条氏に対抗するが、河越城夜戦にて大敗を喫したため、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失った。
のちに上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後国へと落ち延び、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領職を謙信に譲った。



棟綱は高野山蓮華定院に深井棟広(深井右衛門尉)名義でその時のことを書簡で送っている。

「御書中のごとく、不慮の儀をもって当国上州へ 海野棟綱罷り除かれ、

山内上杉憲政殿様へ本意の儀頼み奉り候間、

急度還住いたさるべき由存ずるはかりに候」


おそらく棟綱は上杉憲政の力ですぐに領土を取り戻し帰還できるものと考えていたのである。




戦国Check✓

高野山蓮華定院(こうやさんれんげじょういん)
紀伊国伊都郡高野山(現在の 和歌山県伊都郡高野町高野山)にある寺院。
古来、信濃国佐久・小県両郡と関係の深い寺院であり、両郡関係の中世文書類を数多く蔵している。
また真田氏とも関係の深い寺院で、境内に信之の墓(大五輪塔)もある。
九度山に配流となった真田父子は、この蓮華定院の世話を受けたと言われている。



その頃甲斐国では不穏な空気が流れていた。

天文十年(1541年)六月十四日

信濃国から凱旋した信虎は、娘婿の今川治部大輔義元に会うため、河内路を駿河国に向かっていた。
この河内路が信虎の運命を大きく変えてしまうことになる。

信虎が駿河国に入った途端、突如として甲斐、駿河国境が封鎖され、信虎は甲斐国に戻ることができなくなってしまう。
嫡男武田大膳大夫晴信が兵を送り、甲駿国境を封鎖し、父 信虎を国外追放してしまったためである。

信虎を国外追放した晴信は、自ら武田家の新当主として名乗りを挙げ、
武田家第十九代当主として家督を相続する。

武田晴信と、娘婿である今川義元が、結託して行った無血クーデターであった。

この事件は、あまりにも苛烈な信虎の政策が原因だったと言われている。

度重なる戦で領民に重税と厳しい軍役を科したことで領民の心は離れ、それを諌めた家臣は、ことごとく斬り捨てられ、
さらに信虎の独断政治による家臣団の離反、そして信虎と晴信の不仲など、
様々な要因が重なったことで起こったクーデターであった。


塩山向嶽禅庵小年代記によると、

信虎平生悪逆無道ナリ、国中人民牛馬玄畜トモニ愁悩ス、

噴信万民ノ愁ヲ済ワソト欲シ、足軽ヲ河内境ニ出シソノ帰路ヲ断チ、

位ニ即キ国々ヲ保ツ、人民悉ク快楽ノ咲イヲ含ム


武田信虎は平生より悪逆無道であった。
そのため国中の人民、牛馬、畜類どもに至るまで大いに愁い、悩んでいた。
晴信は万民の愁いを救おうとして、足軽を河内(甲斐南部、駿河との国境)境に出し父の帰り道を断って、
自分が即位し国を保った。
国中の人民はこれを知ると、尽く快楽の笑みを含んだ。

晴信のとったこの行動は後々まで、「悪事」として批判されたが、
当時の状勢としては、こうするよりほかにうつ手がなかったのである。

信虎に関する逸話は他にも色々とある。
信虎に諫言(かんげん)した内藤相模守虎資、馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清、工藤下総守虎豊ら、
重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したと言われており、絶えた名跡も数多くあるという。

また、信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたというものまで伝わっている。
主君の猿を殺して御家断絶・・・・(汗)

しかし、断絶した家名も晴信の代になると復活し、武田家の重臣となっている。
内藤修理亮昌豊、馬場美濃守信春、山県右兵衛尉昌景らがそうである。



戦国Check✓

河内路(かわうちじ)
甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。
別の名称では、「駿州往還」(すんしゅうおうかん)又は「甲州往還」(こうしゅうおうかん)と呼ばれていた。

塩山向嶽禅庵小年代記( えんざんこうごくぜんあんしょうねんだいき)
向嶽寺の歴代住職により書き継がれた甲斐国の年代記で表紙部分には「塩山年代記」と記されている。
武田家臣の記した「高白斎記」や窪八幡神社別当普賢寺の「王代記」、富士北麓の年代記である「勝山記」と並んで
戦国期を中心とする甲斐国中世史の基本史料となっている。

諫言(かんげん)
目上の人の過失などを指摘して忠告すること。

内藤 虎資(ないとう とらすけ)
戦国時代の武将。官位は相模守。甲斐武田氏の重臣。
享禄二年に信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めた為に信虎の勘気に触れ、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊らと共に
処刑され、武田家譜代の名門であった内藤家は断絶する。
しかし永禄十一年四月、これまでの軍功を賞されて、断絶していた内藤家を工藤祐長が継承し内藤昌豊となる。

馬場 虎貞(ばば とらさだ)
戦国時代の武将。官位は伊豆守。甲斐武田氏の重臣。
甲斐国の戦国大名 武田信虎に仕え信虎から「虎」の一字を賜る程の重臣であったが、享禄二年に信虎が一族の加賀美虎光を
討った事を諌めた為に信虎の勘気に触れ、内藤虎資、山県虎清、工藤虎豊らと共に処刑され、武田家譜代の名門であった
馬場家は断絶する。
後に教来石景政が断絶していた馬場家を継承し馬場信春となった。

山県 虎清(やまがた とらきよ)
戦国時代の武将。官位は河内守。甲斐武田氏の重臣。
享禄二年に信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めた為に信虎の勘気に触れ、内藤虎資、馬場虎貞、工藤虎豊らと共に
処刑され、武田家譜代の名門であった山県家は断絶する。
後に重臣 飯富虎昌の弟 飯富源四郎が断絶していた山県家を継承し山県昌景となった。

工藤 虎豊(くどう とらとよ)
戦国時代の武将。官位は下総守。甲斐武田氏の重臣。
享禄二年に信虎が一族の加賀美虎光を討った事を諌めた為に信虎の勘気に触れ、内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清らと共に
処刑され、武田家譜代の名門であった工藤家は一時断絶する。

内藤 昌豊(ないとう まさとよ)
戦国時代の武将。通称は源左衛門。官位は修理亮。甲斐武田氏の重臣。武田四天王の一人。本姓は工藤。
父の工藤虎豊が武田信虎の勘気に触れて誅殺されたため、武田家から出奔し、諸国を流浪する。
その後武田晴信に召還され、工藤氏の旧領と家督を継ぐことを許された。
晴信に仕えてからは、三百騎持の侍大将として功績を挙げ、断絶していた武田家譜代の名門 内藤家の名跡を継ぐことを許されて
内藤昌豊に改め、同時に修理亮を名乗った。
武略に長け、武田信繁と共に武田の副将格として評された。
「甲陽軍鑑」にも、山県昌景が昌豊のことを「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記している。

馬場 信春(ばば のぶはる)
戦国時代の武将。官位は民部少輔、美濃守。甲斐武田氏の重臣。武田四天王の一人。
もとは教来石(きょうらいし)景政と名乗り、武田氏に仕えていたが、侍大将として功績を挙げ、断絶していた武田家譜代の名門
馬場家の名跡を継ぐことを許されて馬場信房と名を改めた。
その後も武田晴信の信濃攻めに参加して武功を挙げ、譜代家老衆の一人に列せられ馬場美濃守信春と改名する。
信春は武田三代に仕えた四十数年の間、七十回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。
このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。

山県 昌景(やまがた まさかげ)
戦国時代の武将。別名は三郎兵衛尉。甲斐武田氏の重臣。武田四天王の一人。
飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている。旧名は飯富源四郎。
信濃攻めなどの功績により「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われ譜代家老衆に列せられて三百騎持の侍大将となる。
永禄八年(1565年)十月、武田晴信の嫡男武田義信と彼の傅役だった虎昌が謀反を起こし、
昌景は血族である虎昌が関与している事を承知の上でこれを晴信に訴えたという。
この功績により虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から晴信の父・武田信虎の代に断絶していた
山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めた。




関東管領 出陣

晴信の起こしたクーデターを知ってか知らずか、突如上杉憲政が棟綱の依頼に応じ信濃国へ出兵する。

天文十年(1541年)七月四日

海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、上野箕輪城主長野信濃守業政を総大将とし、
海野棟綱とその子次郎三郎らを軍に加え武田家・村上家が引き上げた信濃佐久郡に出兵

佐久郡の大井氏、平賀氏、内山氏、志賀氏らを降伏させ信濃長窪まで進軍するが、長野業政は諏訪頼重と和睦し、
海野氏の旧領小県郡には入らずに帰還してしまうのである。

また諏訪頼重は、盟約関係にある武田家・村上家に無断で所領を分割するという理解に苦しむお粗末な対応を行い、
以後武田家・村上家との間に確執を残すことになった。

こうして信濃を追われ還住の望みも断ち切られてしまった海野氏は、完全に没落してしまうことになる。

信濃を追われて上野で海野家再興旧領回復の機会を窺っていた棟綱父子は、後に次郎三郎が武田晴信に仕え
武田家の信濃先方衆として活躍し、「真田」として旧領を回復している。

この次郎三郎こそが武田二十四将にも数えられ、真田氏の礎を築いたとされる真田次郎三郎幸隆である。

余談だが真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃という不吉な意味であるが、
幸隆は山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟としてこの旗印を用いたと言われている。


戦国Check✓

上野箕輪城(うえのみのわじょう)
上野国群馬郡長野郷(現在の 群馬県高崎市箕郷町)にあった城。

長野 業政(ながの なりまさ)
戦国時代の武将。官位は信濃守。上野国箕輪城主。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。
関東管領上杉憲政に仕え、西上野地方最大の武士団である箕輪衆の旗頭。
永禄三年(1560年)、上杉謙信の関東出陣の折に成立した「関東幕注文」(『上杉家文書』)によると、
箕輪衆十九人のうち業政と同じ檜扇の紋を持つ者十人、あとの九人は榛名山周辺の武士たちである。

信濃佐久郡(しなのさくぐん)
信濃国佐久郡 現在の南佐久郡、北佐久郡、佐久市の全域、小諸市の大部分(滋野甲を除く)、
東御市の一部(概ね千曲川以南)辺りの地。

武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)
武田信玄に仕えた武将のうち、一般的な評価が特に高い二十四人をさす。
二十四将図に描かれる武将は諸本により異なるが、いずれの図においても信玄を一将として数えているため、
武将は二十三名しか描かれていない。
秋山信友、穴山信君、甘利虎泰、板垣信方、一条信龍、小畠虎盛、小幡昌盛、飯富虎昌、小山田信茂、高坂昌信、
三枝守友、真田信綱、真田幸隆、武田信繁、武田信廉、多田満頼、土屋昌次、内藤昌豊、馬場信春、原虎胤、原昌胤、
山県昌景、山本勘助、横田高松
※小山田信茂の代わりに、武田勝頼が入っているものもある。



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武田家第十九代当主の政策

家督を継承した晴信は、武田家の威信回復を考え、軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められている
「甲州法度之次第」と言われる分国法を制定し、父 信虎とは違い領国経営に力を注いだ。

甲斐国守護である武田家は、甲府盆地を拠点としており、大雨による笛吹川(ふえふきがわ)と、釜無川(かまなしがわ)
両河川の氾濫(はんらん)水害が多く発生する地域であった。

その為、領民は安定した定住が困難であり、常に自然の猛威に脅えて暮らしていた。

晴信は、領民への信頼回復と、年貢の確実な徴収を第一施策として、
信玄堤と呼ばれる治水工事に取り掛かっている。

水勢を弱めるための策として、堤防の一番堤から五番堤まで各堤(つつみ)を川の中心に向け斜めに突き出し、
対岸にも「出し」を設けている。
この堤の形体が雁の飛ぶようであることから「雁行堤」とも呼ばれている。
はっきりした直線でない不連続で重複した様子が、あたかも霞のようであることから、
この築堤方式は「霞堤」方式と呼ばれ、今なお河川土木工学の手本とされている。

その他にも、晴信が行った画期的な政策は多い。

なかでも、晴信の行った最も大きな政策は、流通整備であった。
黒川金山・中山金山・金鶏金山・真志野金山・小金山金山・富士金山・梅ヶ島金山など、金山の開発に着手し、
それまでの秤量貨幣(ひょうりょうかへい)という、重さでその価値をはかる方法が主流とされてきた中で、
金貨を鋳造し、貨幣に「一両」などの単位をつけ、物の価値を安定させた鋳造貨幣(ちゅうぞうかへい)を用いた。

これらの施策により、
収入の安定化を図り、国力を上げ、他国への侵略を容易に行える軍事基盤をも同時に作り上げたのである。


戦国Check✓

甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)
甲斐国の戦国大名である武田晴信(信玄)が天文十六年(1547年)に定めた分国法で、甲州法度之次第、信玄家法、
甲州法度、甲州式目などともいわれる。
上下二巻から成り、上巻は五十七条、下巻は家訓である。
軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められている。
「民法修正案理由書」によると、
日本民法典起草の際に参照されたことが明記されており、現行法にその影響が残っているものもある。

甲府盆地(こうふぼんち)
山梨県中央部に位置する東西に長い逆三角形の盆地。
中心部に県庁所在地甲府市が位置するほか、甲州市や山梨市など、多くの市域を含む。

信玄堤(しんげんつつみ)
山梨県甲斐市竜王にある堤防、霞堤(かすみてい)。
日本三急流の一つである富士川(釜無川)周辺は、古来より大洪水を引き起こす水害が多く発生する地域。
今から約450年程前、甲斐国主である武田信玄が、甲府盆地一帯を水難の被害から避けるため、笛吹川の下流に
「石積出し」「将棋頭」を設け、水流を二分させるとともに、その流れを釜無川の本流と合流させ、
合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて水流制御が試みられたという。






次回 第六十七話 新しき戦国の世 ⇒



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