2017 07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 09

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

政治は、万民のためを判断基準とする

 【05//2014】

新しき戦国の世


北条氏綱公御書置
甲斐国主武田左京大夫信虎が追放され、武田大膳大夫晴信が新国主として家督を継承した頃、
相模国でも家督交代が起こっている。

天文十年(1541年)七月十九日

北条氏綱が病に倒れ死去した為、北条家第三代当主として、嫡男の北条左京大夫氏康が家督を継承する。
死の直前に氏綱は若い後継者である氏康の器量を心配して、
「北条氏綱公御書置」、「五箇条の御書置」、「五か条の訓戒」などと言われる五か条の訓戒状を伝えている。

一、
大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。
たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。


一、
武士から農民にいたるまで、全ての民を慈しむこと。
必要のない民などいないからである。


一、
決して驕らず、またへつらわずに、身にあった分限を守ること。


一、
倹約に勤めて重視すべし。


一、
勝利はほどほどにせよ。
勝利し続けると、自らに驕り、敵を侮ることがあるからである。




氏綱もまた、家督を父 伊勢新九郎盛時から譲り受ける際に、同様の遺訓を受け、
それを忠実に守る事で北条氏を発展させた。



戦国Check✓

武田 信虎(たけだ のぶとら)
戦国時代の武将。法名は無人斎道有、官位は従五位下 左京大夫 陸奥守。幕府相伴衆、甲斐守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十八代当主。武田信玄の父。
乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、
戦国大名武田氏の基盤を築いた人物。

武田 晴信/武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)
戦国時代の武将。通称は太郎。官位は大膳大夫、信濃守。甲斐守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十九代当主。
乱国となっていた甲斐を統一した、父信虎の基盤を継承し、隣国・信濃に侵攻し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、甲斐武田家の領国を拡大した。
その過程で行なわれた越後国の上杉謙信(長尾景虎)との抗争(川中島の戦い)は有名である。
晩年、西上作戦の途上にて三河で発病し、信濃で病没した。

相模国(さがみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は相州(そうしゅう)。
領域はおおむね現在の神奈川県の北東部を除く大部分にあたる。
足上郡、足下郡、余綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、御浦郡の八郡から成る。

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は左京大夫。後北条家第二代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。



戦国随一の民政家

父 氏綱の心配とは裏腹に、氏康は文武を兼ね備え、関東八州にその名を轟かし、
相模の獅子とまで謳われた名将となり、北条の家名を高めたその優れた功績は、
古今の名将というにふさわしいとまで言われている。

南禅寺の僧 東嶺智旺(とうれいちおう)が北条氏康に謁見した際、氏政のその傑物ぶりを
「表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服す。当代無双の真の覇王」と高く評している。

また氏康は、内政に優れた手腕を発揮しており、戦国随一の民政家としても知られている。
戦国時代の領民は、農民も兵士として働いていた。
年貢は納めなくてはいけない、合戦では命を懸けなくてはいけない。
このような状況下でなぜ北条氏康は歴史に名を残すほど領民に慕われたのか。

家督を継承した氏康は、大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の三人を奉行に任命し、領内の検地を行ない、
諸役賦課(しょやくふか)の状態を徹底的に調査している。

小田原衆、御馬廻衆、玉縄衆、江戸衆、松山衆、伊豆衆、津久井衆、足軽衆、他国衆、御家中衆などの個々の領地と、
その貫高(かんだか)をまとめ、負担すべき馬、鉄砲、槍、弓、指物、旗、そして軍役としての動員人数などを、
小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)を作成し、詳細に記載している。
これにより、家臣や領民の負担が明確になり、家臣団や領民の統制がより円滑に行われるようになったという。

税制改革では、それまで不定期の徴収で泣かされていた農民に対し、
貫高の6%の懸銭(かけぜに)を納めさせることにより納税を均質化し結果として負担を軽減させている。
凶作や飢饉の年には減税や年貢の免除、反銭や棟別銭を始め国役の免除まで行なったと言われている。

また、領民の支持を得るため、国人等の中間支配者層を牽制(けんせい)するとともに、独自の官僚機構である
評定衆(ひょうじょうしゅう)を創設し、領民の誰もが直接不法を訴える事ができるよう目安箱を設置している。

北条家の行政機構は全国で最も先進的なものであったといわれ、後の江戸幕府はこれを継承して経済を運用している。
徳川家康が小田原を領した際、領民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったという。
その為、
収穫高の四割を年貢として領主に納め、六割を農民の所得とする「四公六民」と称されたこの政策の継承と、
税目の整理による負担軽減で領民の支持を得たのである。

氏康の死が小田原城下に伝えられた際、領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだと言われている。
氏康がこれほど領民から慕われていたのは、税目や官僚機構の整理により、
領民が納得する形で無駄な負担を減らす経営を実践し、隣国からの攻撃はもちろんのこと、
不作や災害からも領民とその家族を守ったからである。



戦国Check✓


関東八州(かんとうはっしゅう)
関八州、坂東八箇国。
関東の八か国の総称であり、相模(さがみ)・武蔵(むさし)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・安房(あわ)
上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)をいい、現在の関東地方に当たる。

諸役賦課(しょやくふか)
諸種の役目や種々の職に対して、課せられる税金。年貢。

貫高(かんだか)
室町・戦国時代に用いられた所領規模の表示方式。
とくに戦国大名が知行宛行(あておこない)の際に広く用いたもので、年貢量とともに軍役量の基準をあらわす数値。

小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)
相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。「北条家分限帳」、
「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。全一巻。
表題の由来となった小田原衆をはじめ馬廻衆、玉縄衆など家臣団を十二の衆別五百六十人の役高が貫文で記され、
所有する郷村名も併記された。

評定衆(ひょうじょうしゅう)
北条家家老クラスの重臣により、構成された組織。
合議政治の典型的な形であり、五代にわたって家臣・国人の裏切りが皆無に近い北条家の強さの裏付けと考えられる。
また、「いつになっても結論の出ない会議や相談」という意味の比喩表現として使われている小田原評定という言葉は、
小田原合戦時の戦術をめぐる評議における論争で、意見が分裂し結論がなかなか定まらなかったという故事。

四公六民(しこうろくみん)
江戸時代の年貢率の一。
その年の収穫高の四割を年貢として領主に納め、六割を農民の所得とするもの。

おススメの本
その時歴史が動いた 智将・猛将編
その時歴史が動いた 直江兼続と戦国興亡編
その時歴史が動いた 日本史のヒーロー編
その時歴史が動いた 風雲戦国編
その時歴史が動いた 乱世英雄編
その時歴史が動いた 歴史の選択編
その歴史常識にはウラがある! 
それは誤解だ戦国武将 (ナレッジエンタ読本22) 加来耕三+嶋健一郎 (著)



東国最大の都市

相模北条家の本拠地である居城小田原城は、相模湾を望む天然の要塞であり、
城下町をも城郭の中に取り込むほどの巨大な城塞都市であった。
氏康は全国から腕利きの職人や文化人を呼び寄せ、大規模な都市開発を行い、日本初となる上水道(小田原早川上水)を
小田原城下に飲用として整備し、戦国期最大の城塞都市を築き上げている。
東の小田原西の山口と称される程の大規模な都市であった。

天文二十年(1551年)に小田原を訪れた南禅寺の僧 東嶺智旺(とうれいちおう)は、
「町の小路数万間、地一塵(ちいちじん)無し。海水小田原の麓(ふもと)を遶(めぐ)るなり。」と記しており、
海に面した清潔な大都市の様子を伝えている。

東嶺智旺の見た「地一塵無し」の小田原の背景の一つには北条氏の施策がある。
氏政は元亀三年(1572年)に
家臣 岡本八郎左衛門政秀を「掃除検使」に命じて松原神社社中の掃除方法を示している。

これは草の刈り方から作業終了時刻まで定めた詳細な規程であり、北条氏は都市の美化につとめるとともに、
「掃除」を通じて都市の掌握を図っていたとも言われている。



戦国Check✓

相模小田原城(さがみおだわらじょう)
相模国足柄下郡小田原(現在の神奈川県小田原市)にあった城。

小田原早川上水(おだわらはやかわじょうすい)
早川を水源とし、神奈川県小田原市内を流れる上水である。
日本最古の水道とされる。
北条氏康が小田原を支配した頃に小田原城下に水を引き入れるために成立したものと考えられている。




駿河国の今川義元 二十二歳

甲斐国の武田晴信 二十歳

そして、相模国の北条氏康 二十六歳

若き当主達による新しき戦国の世が始まろうとしていた。




次回 第六十八話 和睦交渉 ⇒


CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ
スポンサーサイト

Category: 天文記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。