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信長流戦術って何

 【12//2015】

400年以上生き続ける男


織田三郎信長ほど統率者としての魅力を備えた人物は日本の歴史上極めて少ないのではないだろうか。
四百年以上たった現代において尚、人々の心から忘れ去られることなく、生きつづけている。

ものの考え方や、その行動に人々は魅了されてきたのかもしれない。

中でも信長の先進性には目を見張るものがある。

兵を普段から鍛錬し、いかにして強い兵を育てるかということに余念がなかった信長は、
軍事訓練の中で短い槍では具合が悪いという事に気づくのである。


信長公記によると、

其の折節、竹鑓にて扣き合ひを御覧じ、兎角、鑓はみじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、

三間柄、三間々中柄などにさせられ・・・・



竹槍(たけやり)でのたたき合い(鑓試合)を目の当たりにした信長は、

「みじかく候ては悪しく侯」

全ての槍を三間(約5.4m)ないし三間半柄(さんげんまなかえ:約6.3m)の長柄(ながえ)の物に代えさせている。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。




長槍
当時の合戦は、弓戦から始まり、次に、槍隊が槍を揃えて突撃し、槍戦となる。
敵の突進を止め、敵を負傷させて引き退かせ戦意を喪失させることが合戦の重要なポイントであった。

槍隊が前方に向けて槍を水平に構え、最前線の者が倒されればすぐに後の槍隊が前進してその穴を埋める。

そこで信長は、槍は長いほうがよいという結論に達し、長槍を考案するのであるが、
当時の槍は二間半(約4.5m)が普通とされており、それよりかなりの長さである為、
かなりの訓練が必要ではあったが、有利であると判断した為、代えさせている。

長槍隊は当時の戦国大名の多くが軍備の中心に据えていた為、決して特異なケースではないが、
三間半にも及ぶ長槍は信長軍独自のものであった。

三間半長柄槍隊の槍衾(やりぶすま)は、
二間半長柄槍隊の接近を防ぎ、騎馬隊の突進をも妨げ、隊列の間隔を一定に保ちながら前進し、
敵を手許に飛び込ませないように只ひたすら押し返し、敵が退いた所に槍隊の背後に布陣している
精鋭部隊が突撃する。

信長の三間半長柄槍隊は突いたり・刺したり・払ったり・叩いたりという今までの
槍隊の常識を変えた戦法であった。




織田信長はなぜ「天才」と言われるのか
織田信長 戦国最強の軍事カリスマ
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鉄砲
また信長の先進性に驚かされるのが鉄砲の利用である。

日本に鉄砲が伝来したのは、

天文十二年(1543年)
種子島左近衛将監時尭がポルトガル人から二挺の火縄銃を購入したことから始まる。

そのわずか六年後の
天文十八年(1549年)
弱冠十六歳の信長は、近江国友村(くにともむら)に五百挺もの鉄砲製作を依頼している。

また戦術にも創意工夫をこらし、かの長篠の合戦(ながしののかっせん)では、
馬防柵を設け、鉄砲隊を三段に編成して弾を込め、点火し、狙いを付けて撃つ動作をシステム化した
三段式装填法(さんだんしきそうてんほう)と呼ばれる戦法をあみだしている。

もはや大うつけなどではないことが良く解る。




戦国Check✓

種子島 時尭(たねがしま ときたか)
戦国時代の武将。幼名は犬楠丸。官位は左兵衛尉、弾正忠、左近衛将監。種子島氏の第十四代当主。
天文十二年(1543年)、種子島南端に漂着したポルトガル人より鉄砲二挺を購入し、
刀工八板(やいた)金兵衛に鉄砲の製法を学ばせ作らせている。これが我が国鉄砲伝来の初見とされている。

近江国友村(おうみくにともむら)
近江国坂田郡国友村。戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。
国友村の鉄砲鍛冶は、その技能の高さから別の職人集団へと独立した一派も存在し、
伊勢国亀山に移った者達は、鍔職人「亀山鍔」として名をはせた。

長篠の戦い(ながしののたたかい)
天正三年(1575年)五月二十一日、三河国長篠城をめぐり、織田信長、徳川家康連合軍三万八千と
武田勝頼軍一万五千との間で勃発した戦い。
決戦地が設楽ヶ原(したらがはら)および有海原(あるみはら)だったため長篠設楽ヶ原の戦いと記す場合もある。



次回 第七話 松平清康の尾張侵攻 ⇒




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