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国家間における紛争解決とは・・・・・

 【05//2014】

和睦交渉


道増の和睦交渉
天文十四年(1545年)三月二十六日

山城国の聖護院門跡である道増が、後奈良天皇の命を受け、
対立が続く駿河今川家相模北条家を和睦(わぼく)させようと駿河国に下向し、駿府に滞在している。

その後、道増は後奈良天皇が書写した般若心経を各国の一宮に奉納する為、
甲斐国武田家相模国北条家のもとを訪れ和睦の話を持ちかけている。



戦国時代には政治に介入する政僧がしばしば出現する。
聖護院門跡である道増もまた政僧の一人であることは間違いなく、
諸国を廻遊して大名間の紛争の和睦を斡旋するという形で政治に関与した。

道増は摂関家の出身であり、なおかつ将軍の外戚であるという、
当時の社会秩序においては諸大名よりも上位に位置した存在であった為、大名間の紛争の和睦交渉人としては
うってつけの人物であった。

道増が関与した紛争調停は、
今川義元と北条氏康伊達稙宗と伊達晴宗毛利元就と尼子晴久毛利元就と大友宗麟の調停に当たっている。


戦国Check✓

聖護院(しょうごいん)
山城国愛宕郡聖護院村(現在の京都市左京区聖護院中町)にある本山修験宗総本山の寺院。以前は天台寺門宗に属した。
日本の修験道の中心寺院の1つ。
近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の2つに分かれたが、
聖護院はこのうちの本山派の中心寺院であった。
また、代々法親王(皇族男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。
江戸時代後期には2度にわたり仮皇居となったこともある。

門跡(もんせき、もんぜき)
皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のこと。寺格の一つ。
元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。
鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。

道増(どうぞう)
聖護院第二十五代門跡。関白近衛尚道(このえひさみち)の子。
園城寺(おんじょうじ)長吏(ちょうり)、熊野三山検校(けんぎょう)などをつとめる。

後奈良天皇(ごならてんのう)
諱は知仁(ともひと)。称号は天皇。第百五代天皇。
皇室が最も衰微した時期に即位し、即位式は大内、今川、後北条氏らの諸大名からの献金を得て執り行なわれた。
戦乱や災害で飢饉、疫病に苦しむ庶民のため、悪疫流行の終息を祈り、般若心経を書写して諸国一宮に奉納した。
また、天皇権威の振興を図り、安土桃山時代の「王朝回復」の先駆けをなしたと言われている。

摂関家(せっかんけ)
鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家のこと。
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の
五家がある。


天文十四年(1545年)七月七日
道増は再び駿河国に下向し、今川治部大輔義元が主催する歌会に出席している。

為和卿集(ためかずきょうしゅう)によると、

「七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、

然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也」
とあり、

聖護院門跡(道増)は、内々で東(北条家)との和睦交渉を行う為、駿河国に下向し、治部大輔が取り仕切る歌会に出席したと記されている。
この歌会の後、道増は北条家のもとへ赴き、和睦交渉を行うが、失敗に終わっている。


戦国Check✓

為和卿集(ためかずきょうしゅう)
室町時代の公卿、歌人であった正二位権大納言冷泉為和(れいぜいためかず)が記した歌集。
為和自身が年次を追って書いたもので、戦国武将などと文芸交流を示す歌が多く史料的価値は高い。



今川家と北条家の和睦交渉が失敗に終わったことを知った今川治部大輔義元は、

天文十四年(1545年)七月二十四日

北条家に占拠されたままの河東地域を奪還すべく、兵を率いて駿府を出陣し富士川を越え、
北条家の拠点である駿河吉原城の目と鼻の先にある善得寺に布陣した。

同じ頃、今川家からの援軍要請を請けた武田大膳大夫晴信は、
今川軍と合流するべく甲府を出陣し河東地域に進軍していた。

八月十一日
今川軍本陣のある駿河善得寺で義元と晴信が会見を行い、武田家は今川家への支援を約束する旨の血判書を取り交わし、今川家の失地回復を支援した。

八月十六日
義元による駿河吉原城攻撃が開始される。
義元出陣の報せを受けた北条左京大夫氏康は、自ら兵を率い河東地域へと軍を進め、
吉原城へ入り防戦の指揮を採るが、失地回復を狙う今川軍の士気は高く、北条軍が押されるかたちとなった。


戦国Check✓

善得寺(ぜんとくじ)
駿河国富士郡瀬古(現在の静岡県富士市今泉)にあった臨済宗妙心寺派の禅寺。
貞治二年、下野国那須(現在の栃木県羽黒町)にあった雲巖寺の大勲策禅師が開山した寺といわれている。
戦国時代には駿東第一の大規模な寺院であったことがわかっており、また、地理的重要性から
城郭(善得寺城)も併設されていたと言われている。
しかし、永禄十二年、駿河国に侵攻した武田軍の手によって善得寺は焼失。その後
再建されることはなかった。

おススメの本
平清盛 一巻 
平清盛 二巻
太原雪斎と今川義元 (PHP文庫) 江宮 隆之 (著)
竹千代を盗め 岩井 三四二 (著)
猛き黄金の国 斎藤道三 
第六天魔王信長―織田信長と異形の守護神 
伊達家の秘話 伊達 泰宗 (著) 、 白石 宗靖 (著)
たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する 




北条軍の劣勢を決定的にしたのは
八月二十二日

今井狐橋の戦いで、義元は北条軍を撃破している。
この今井狐橋において、義元は軍功が目覚しかった天野安芸守虎景に感状を与え、その戦功を賞している。


戦国Check✓

今井狐橋の戦い(いまいきつねばし)
天文十四年(1545年)八月十六日、駿河の今川義元軍が相模の北条氏康軍を駿河国狐橋で破った。
この戦いに勝利した義元は勢いに乗って北条方の長久保城を攻略、武田信玄を仲介にすることで
河東地域(駿東郡・富士郡)を後北条氏から取り戻した。




次回 第六十九話 氏康に襲い掛かる悪魔の連鎖 ⇒



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