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すべてを奈落の底に突き落とす - 阿修羅

 【05//2014】

氏康に襲い掛かる悪魔の連鎖


関東地方
関東地方では覇権を巡り、古河公方と補佐する立場にあった関東管領が対立し、
さらに関東管領内部において、本家筋の山内上杉家と、庶家の扇谷上杉家との対立が続いていた。

この関東での騒乱に乗じ、古河公方と誼(よしみ)を通じていた伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、
扇谷上杉家領であった相模国において挙兵し、相模北条家の基礎を築き上げたのである。

その後、早雲の跡を継いだ北条左京大夫氏綱は、武蔵国に進出し、
江戸城、さらに扇谷上杉家の居城である河越城を落とすなど、扇谷上杉家を滅亡寸前にまで追いつめていた。

しかし、氏綱が没し、北条左京大夫氏康が跡を継ぐと、
それまで同盟関係にあった古河公方足利左兵衛督晴氏が、関東管領山内上杉家や扇谷上杉家の要請に応じ、
叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)すようになる。


戦国Check✓

古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
享徳四年(1455年)、第五代鎌倉公方足利成氏が、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となる。
その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。
御所は主に古河城。
古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

関東管領上杉家(かんとうかんれいうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)が代々世襲した
鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。
当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の宗家。関東管領。
足利尊氏・直義兄弟の、母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家。

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。

相模国(さがみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は相州(そうしゅう)。
領域はおおむね現在の神奈川県の北東部を除く大部分にあたる。
足上郡、足下郡、余綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、御浦郡の八郡から成る。

武蔵国(むさしのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は武州(ぶしゅう)。
領域はおおむね現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部にあたる。
久良郡、都筑郡、多麻郡、橘樹郡、荏原郡、豊島郡、足立郡、新座郡、入間郡
高麗郡、比企郡、横見郡、埼玉郡、大里郡、男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、那珂郡
児玉郡、加美郡、秩父郡の二十一郡から成る。

武蔵江戸城(むさしえどじょう)
武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城。

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

足利 晴氏(あしかが はるうじ)
室町時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位 左兵衛督。室町幕府第四代古河公方。
越後長尾氏の援助を得て元服し、将軍義晴の偏諱(へんき)を得て晴氏と称した。
父高基の方針のもと後北条氏と婚姻関係を結び、北条氏の援助を得て小弓(おゆみ)公方足利義明を
下総国府台(こうのだい)合戦で破った。
その後、後北条氏からの自立を図り河越城の戦で関東管領上杉憲政に味方して後北条氏と戦うが敗れ、
勢力を後退させた。



暗雲が漂う
河東地域の覇権を巡り駿河今川家、甲斐武田家と対峙していた北条左京大夫氏康は、
関東で不穏な空気が流れ始めている事に気付かずにいた。

天文十四年(1545年) 八月二十二日
今井狐橋の戦いで劣勢が決定的になった北条軍は、駿河吉原城を捨て、伊豆三島城に撤退することになる。

三島に撤退を余儀なくされた氏康は、武田大膳大夫晴信に使者を送り、今川家との和睦を模索し始めた。

しかし今川治部大輔義元は、
北条家への攻撃の手を緩めることなく、三島の北にある駿河長久保城の攻撃を開始する。


戦国Check✓

河東(かとう)
駿河国の富士川以東の地域を指す。

今井狐橋の戦い(いまいきつねばし)
天文十四年(1545年)八月十六日、駿河の今川義元軍が相模の北条氏康軍を駿河国狐橋で破った。
この戦いに勝利した義元は勢いに乗って北条方の長久保城を攻略、武田信玄を仲介にすることで
河東地域(駿東郡・富士郡)を後北条氏から取り戻した。

駿河吉原城(するがよしはらじょう)
駿河国富士郡吉原(現在の静岡県富士市吉原)にあった城。

伊豆三島城(いずみしまじょう)
伊豆国田方郡三島(現在の静岡県三島市)にあった城。

駿河長久保城(するがながくぼじょう)
駿河国駿東郡長久保(現在の静岡県駿東郡長泉町)にあった城。



最悪の連鎖
今川治部大輔義元との和睦を模索する氏康に、さらに追い討ちをかけるような大事件が勃発する。

今川家と北条家の戦況を見ていた、室町幕府関東管領山内上杉家当主 上杉兵部少輔憲政が、
好機とばかりに関東諸大名に、相模北条家討伐の陣触(じんぶれ)を出したのである。

上杉憲政の号令に応えたのが、

扇谷上杉家当主 上杉修理大夫朝定

古河公方 足利左兵衛督晴氏

その他関東諸大名らが連合軍として、約八万の大軍をもって北条家の支城武蔵河越城を包囲した。
氏康は、四方を敵に囲まれた状況になってしまっていた。


戦国Check✓

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は兵部少輔。山内上杉家第十五代当主。第二十二代関東管領。
関東管領として関東主要国の広範囲に権限を持ち、扇谷上杉家、駿河今川家と結んで関東中心部へと勢力を拡大していく
相模北条氏に対抗するが、河越城夜戦にて大敗を喫したため、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失った。
のちに上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後国へと落ち延び、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領職を謙信に譲った。

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は修理大夫。扇谷上杉家第十三代当主。扇谷上杉家の事実上最後の当主。
天文六年、父朝興の死により家督を継承するが、北条氏綱によって本拠武蔵河越城を追われ松山城を居城とする。
天文十五年、関東管領上杉憲政と結び古河公方足利晴氏をたてて河越城の奪回をはかり攻囲するが、
四月二十日、河越城の戦いで北条氏康に敗れて戦死。
享年二十二歳。
朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。
一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。



河東地域撤退
苦境に立たされた氏康は、再度、武田家を仲介に、今川家との和睦交渉を行い、

天文十四年(1545年)十月二十四日
駿河今川家と相模北条家との和睦は成立する。

北条軍は、長久保城を今川家に差し出し、河東地域から撤退。

和睦は、成立したものの実際は北条家の敗北であった。

義元は、約八年の歳月を経てついに河東地域の平定に成功したのである。

敗れた氏康はこの後、河越城へと軍を進め奇襲によって伝説的な勝利を収めることになる。




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次回 第七十話 地黄八幡の猛将 ⇒


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