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北条軍団随一の猛将

 【05//2014】

地黄八幡の猛将


日本外史
幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた、江戸時代後期の歴史家であり思想家である、頼山陽(らいさんよう)は、
文政十二年(1829年)に刊行した歴史書「日本外史」で、厳島の戦い 桶狭間の戦い 河越城の戦いを、
日本の歴史上特筆すべき戦いとして、日本三大奇襲(にほんさんだいきしゅう)と命名している。


戦国Check✓

尊王攘夷(そんのうじょうい)
王を尊び、外敵を撃退しようとする思想。
日本では、江戸時代末期(幕末)に朝廷から一般民衆まで広く論じられ、討幕運動の合言葉として利用された。
尊王攘夷論と呼ばれることもある。

頼山陽(らいさんよう)
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎。名は襄(のぼる)。字は子成、山陽、三十六峯外史。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
二十一歳で安芸を出奔するが脱藩の罪で自宅幽閉となる。
赦免ののち、京都で開塾し、詩、書に才能を発揮する。
幽閉中に起稿した「日本外史」は、幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。
天保三年九月二十三日死去。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
天文二十四年十月一日(1555年)、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)
武蔵国河越城で、北条氏康と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏ら関東連合軍との間で行われた合戦。


地黄八幡

天文十四年(1545年)九月二十六日

関東管領山内上杉家扇谷上杉家古河公方足利家、その他関東諸大名による、
関東連合軍 約八万の大軍団が北条家の支城武蔵河越城を包囲している。

河越城には、守将として北条左京大夫氏康の信任の厚かった義弟、
北条左衛門大夫綱成が、約三千の兵で守備していた。

綱成は、武勇に秀でた武将であり、常に北条軍の先鋒を勤め、その無類の強さから地黄八幡と称えられ、
関東一帯にその名が鳴り響いていた。
逸話ではあるが、綱成の地黄八幡の旗指物を拾った武田大膳大夫晴信が、
「左衛門大夫の武勇にあやかるように」と、家臣真田源太左衛門幸隆の息子・源次郎に与えたとされている。


戦国Check✓

関東管領(かんとうかんれい)
鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。
当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の宗家。関東管領。
足利尊氏・直義兄弟の、母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家。

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
享徳四年(1455年)、第五代鎌倉公方足利成氏が、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となる。
その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。
御所は主に古河城。
古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
後北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。

地黄八幡(じきはちまん)
北条家五備(五家老)の黄備を担当していた北条綱成の『八幡』と墨書した旗指物。

真田 幸隆(さなだ ゆきたか)
戦国時代の武将。幼名は次郎三郎。通称は源太左衛門、弾正忠。武田二十四将の一人。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。
以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
攻め弾正、鬼弾正などの異名を持ち、武田家中でも一目置かれていた存在と言われている。
智将 真田幸村の祖父。


篭城
北条家随一の猛将と謳われた綱成でさえ、八万の大軍団を前には成す術が無く、
城兵共々華々しく討死を覚悟していたという。

綱成の気性がわかる氏康は、「絶対に綱成を死なせてはならぬ」といい、
綱成の弟である、北条刑部少輔綱房を使者として単騎河越城へ向かわせた。

「わが軍勢が到着するまで城外へ討って出てはならぬ。籠城にて耐え凌ぐように」
使者として向かった綱房もまた、兄綱成に劣らぬ猛将であった。
単騎で関東連合軍の包囲網を潜り抜け、河越城に入城すると、兄綱成に氏康の策を伝えた。

その頃氏康は、八千の軍勢を率い、河越城救出に向かっていた。
氏康は、常陸国の小田左近衛中将政治の家臣菅谷隠岐守貞次に、
「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と、和睦(わぼく)の提案を持ち掛けるが、
数に勝る連合軍の総大将上杉兵部少輔憲政や、足利左兵衛督晴氏は、
この和睦の提案を一蹴し、この機に弱腰になっているであろう北条家の息の根を絶とうと意気込んでいた。


戦国Check✓

北条 綱房(ほうじょう つなふさ)
戦国時代の武将。通称は孫二郎。官位は刑部少輔、伊賀守。
今川氏親の家臣福島正成の次男。幼名は福島弁千代と称した。
父の没落後に兄綱成や妹とともに北条家に身を寄せ、北条氏綱からの偏諱を受け綱房と称した。
軍記物などに登場する福島伊賀守勝広は綱房を指しているともいうが、勝広は史料上では登場しない。
北条氏直の代に福島伊賀守賢成という人物がいる。

常陸国(ひたちのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は常州(じょうしゅう)。
領域はおおむね現在の茨城県の大部分にあたる。
筑波郡、河内郡、信太郡、行方郡、鹿島郡、真壁郡、新治郡、茨城郡、那珂郡、久慈郡、多珂郡の十一郡から成る。

小田 政治(おだ まさはる)
戦国時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位上、左近衛中将、左京大夫。常陸小田氏第十四代当主。
堀越公方足利政知の子であり、室町幕府第十一代将軍足利義澄の弟に当たる。
小田氏の中興の祖とよばれ、小田氏を戦国大名化へと導き、最盛期を築いた。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は兵部少輔。山内上杉家第十五代当主。第二十二代関東管領。
関東管領として関東主要国の広範囲に権限を持ち、扇谷上杉家、駿河今川家と結んで関東中心部へと勢力を拡大していく
相模北条氏に対抗するが、河越城夜戦にて大敗を喫したため、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失った。
のちに上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後国へと落ち延び、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領職を謙信に譲った。

足利 晴氏(あしかが はるうじ)
室町時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位 左兵衛督。室町幕府第四代古河公方。
越後長尾氏の援助を得て元服し、将軍義晴の偏諱(へんき)を得て晴氏と称した。
父高基の方針のもと後北条氏と婚姻関係を結び、北条氏の援助を得て小弓(おゆみ)公方足利義明を
下総国府台(こうのだい)合戦で破った。
その後、後北条氏からの自立を図り河越城の戦で関東管領上杉憲政に味方して後北条氏と戦うが敗れ、
勢力を後退させた。


おススメの本
使ってみたい武士の作法 杉山頴男 (著)
使ってみたい武士の日本語 野火 迅 (著)
手にとるように戦国時代がわかる本 
東海地域文化研究―その歴史と文化 名古屋学芸大学短期大学部東海地域文化研究所
徳川家康 トクチョンカガン 荒山 徹 (著)
徳川家康の秘密 永司 千力 (著)



次回 第七十一話 北条家臣団・譜代四十六家 ⇒



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