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覇業への道~獅子奮迅~

 【31//2015】

北条家臣団・二十八老将



伊勢新九郎盛時の孫にあたる北条左京大夫氏康は、
譜代の四十六家から、二十八人を抜擢し、それぞれ三家老五家老二十将に任命し、
北条氏の重要な城に配属した。


戦国Check✓

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。


「関八州の大守」といわれた相模北条氏は、
支配領域が広大なことと、初代伊勢新九郎盛時が伊豆に攻め入った延徳三年(1491年)から
第五代当主北条左京大夫氏直が豊臣秀吉に攻められた天正十八年(1590年)まで、
百年間にわたって戦国大名として君臨していたこともあり、家臣の数は膨大である。


三家老には、
今川氏、武田氏の侵攻に備えた西の守りである駿河興国寺城松田尾張守憲秀

上杉氏、武田氏に備えた北の守りである上野松枝城大道寺駿河守政繁

千葉氏、佐竹氏、里見氏に備えた東の守りである武蔵江戸城遠山丹波守綱景

三家老は相模北条氏の前線基地として重要な城の警固を任された。


戦国Check✓

駿河興国寺城(するがこうこくじじょう)
駿河国駿河郡(現在の静岡県沼津市根古屋)にあった城。

松田 憲秀(まつだ のりひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。官位は左馬助、尾張守。相模北条家臣。小田原衆筆頭。
「小田原衆所領役帳」には貫高二千七百九十八貫文余と記載されており、これは家臣中最高であった。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原来攻に当たって籠城を主張したといわれる。
籠城中、秀吉方に内応しようとし、戦後秀吉より切腹を命じられている。

上野松枝城(うえのまつえだじょう)
上野国碓氷郡松井田(現在の群馬県安中市松井田町)にあった城。

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。幼名は孫九郎。官位は駿河守。相模北条家臣。河越衆筆頭。
北条早雲の重臣であった盛昌以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めで松枝城を守るが、前田利家・利長軍に攻められ降伏。
秀吉の命で天正十八年七月十九日自害。

武蔵江戸城(むさしえどじょう)
武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城。

遠山 綱景(とおやま つなかげ)
戦国時代の武将。通称は藤九郎。官位は隼人佑、甲斐守、丹波守。相模北条家臣。江戸衆筆頭。
北条早雲の重臣であった直景以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
「小田原衆所領役帳」によると、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約九百六十三貫を知行していた。
永禄六年、第二次国府台合戦にて討ち死。


五家老には、
扇谷上杉氏の元居城で武蔵国中心の城である武蔵河越城北条左衛門大夫綱成

鎌倉を制圧する拠点の城である相模玉縄城北条治部少輔綱高

古河公方の元居城である下総栗橋城富永三郎右衛門尉直勝

相模北条氏の南の守りであり、水軍の拠点でもある伊豆下田城笠原能登守康勝

山内上杉家の元居城である上野平井城多目周防守元忠がそれぞれ配属された。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
相模北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。
別名は「福島綱成」。

相模玉縄城(さがみたまなわじょう)
相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった城。

北条 綱高(ほうじょう つなたか)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官位は常陸介。相模北条家臣。
相模北条氏三代に仕え、五色備の赤備えを率いた勇将。
武蔵制覇に貢献し、地黄八幡こと北条綱成に匹敵すると言われる武将。

下総栗橋城(しもうさくりはしじょう)
下総国葛飾郡(現在の茨城県猿島郡五霞町)にあった城。

富永 直勝(とみなが なおかつ)
戦国時代の武将。幼名は岩千代。通称は神四郎、四郎左衛門、三郎右衛門尉。相模北条家臣。
「小田原衆所領役帳」によると、伊豆西土肥に加え相模西郡飯田など千三百八十三貫を知行していた。
相模北条氏三代に仕え、五色備の青備えを率いた勇将。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏規を城主とする韮山城に篭って戦うも六月二十四日落城。
北条氏が没落した後、家康から仕官の誘いがかかったがこれを断り、代わりに長男の直則を仕官させた。

伊豆下田城(いずしもだじょう)
伊豆国加茂郡下田(現在の静岡県下田市)にあった海城。

笠原 康勝(かさはら やすかつ)
戦国時代の武将。幼名は弥太郎。官位は能登守。相模北条家臣。
相模北条氏三代に仕え、五色備の白備えを率いた勇将。
相模北条家譜代家臣である武蔵小机城代 笠原越前守信為の子。
加島合戦では松田憲秀、北条氏繁らとともに北条軍の先鋒を勤めた。

上野平井城(うえのひらいじょう)
上野国緑野郡平井郷(現在の群馬県藤岡市西平井)にあった城。

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
相模北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。


五色備
五家老の指物の色はそれぞれ定められており、北条五色備と戦場で恐れられた精鋭部隊であった。

黄備を率いていたのが、北条左衛門大夫綱成

赤備を率いていたのが、北条治部少輔綱高

青備を率いていたのが、富永三郎右衛門尉直勝

白備を率いていたのが、笠原能登守康勝

黒備を率いていたのが、多目周防守元忠であった。

氏康の陣立は、この五家老を中心としたもので、五色の色分けによって、
遠くからでも自軍の攻撃の様子などを把握しやすく、指揮しやすかったという。



また氏康は、三家老・五家老の下に二十将衆を配置している。
二十将衆とはいずれも駿河、伊豆、相模などの国人衆で構成されており、彼らも領国内の諸城の守備を分担していた。

普通は支城主クラスの家臣を重臣と呼んでいる。
もっとも、重臣とは何貫文以上の所領高であるとかいった規定があるわけではなく、
ただ漠然と呼び習わされているだけである。
相模北条氏の場合、領国規模も大きかったこともあって、重臣の数も多かった。


二十将衆
荒川豊前守、山中主膳正、荒木右衛門尉、在竹又太郎、福島伊賀守、
横井越前守、清水上野介、南条九衛門尉、山角四郎左衛門尉、石巻勘ヶ由、
佐藤左衛門尉、板部岡右衛門尉、中条出羽守、伊丹右衛門尉、行方弾正、
間宮豊前守、朝倉右京亮、大藤式部丞、大谷帯刀、安藤左近太夫などである。

この八人の家老と、二十人の部将による二十八老将と呼ばれる譜代の家臣団が、
氏康率いる相模北条家の中核を担うのである。


おススメの本
内閣総理大臣 織田信長 志野 靖史 (著)
なぜか語られなかった日本史の意外な顚末 
「なぜか成果が出てしまう人」の習慣術 土井 哲 (著), 高木 進吾 (著)
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次回 第七十三話 河越城の戦い ⇒



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